たとえば、この感情が恋だとする。そのうち青い炎をまとった彼のことが頭から離れなくなり、心を占め、その癖のある黒髪を撫でたいだとか、拗ねたときに膨らんだ頬を抓ってみたいだとか、くちびるのやわらかさに触れ、尖った白い歯の感触を舌先で感じてみたいだとか、それらをつい衝動に任せて実行してしまったりするようになってしまうんだろうか。自分のことなのに全然わからない。
 俺はついぞまっとうな恋などしたことがなかった。かわいい女の子に胸ときめかすことはあっても、それは単なる目の保養だったり、男として当然の活力を求めるような即物的感情に過ぎない。
 ちっぽけで臆病な心臓は、この命は、たったひとりの人間のためにある。俺は勝呂竜士そのひとのために生きている。大袈裟に言えば、たぶん愛してる。
 生まれたときから彼は俺の特別だった。疑問を抱いたことなどない。ふと普通の家庭に生まれていればと考えたこともある。平凡な学生生活を送って、かわいい彼女とデートを楽しんで、青い炎に脅えることなく生きる。そんな人生があったかもしれない、と。ただ不思議なことに、それを望んだことは一度たりともなかった。面倒くさいと思うことはあっても、自分の生まれを呪ったことはない。志摩の人間に生まれなければ俺は坊と出会っていなかった。それだけは絶対に嫌だと思う。
 それに、そう……祓魔師なんてけったいなものを目指さなければ彼と出会うこともなかった。明るくて優しいサタンの息子。ええ子の奥村くん。
 俺の世界は狭くて、こんな性格だから友人もそれなりにはいたけど、京都では明陀の人間ということで良くも悪くも一線を引かれ、結局いつも坊と子猫さんの三人でつるんでいた。坊を中心に明陀の壁で囲われた俺の世界。その壁を奥村くんはたやすく乗り越えてしまった。彼の屈託のなさはみんなに少なからず影響を与えた。あの坊にさえ。本当はみんなわかっているはず。彼がええ子だってことくらい。
「奥村くーん、そろそろ部屋に戻らんとまずいんとちゃう?」
「うーん……」
 何故だか酔っぱらった様子の彼は弟の愚痴を散々こぼし、今では口の端からだらしなく涎を垂らしている。夏の京都は蒸し暑い。このまま外に放置しておいても死にはしないだろうけど、そこまで冷たくもなれない俺は弁当の空箱をまとめ、彼の肩を叩いた。返事の代わりに尻尾がゆらゆら揺れ、使い魔の猫又がじゃれつく。俺はしゃがみ込み、冷たい岩に頬を押しつけている彼の寝顔を見つめた。呆れるくらい無防備だ。鼻を摘んでみる。先端だけひんやり冷たい。
「……へんな顔」
「や…………め、ろ」
 彼はうめき声をあげ、眉間を寄せた。
「ゆき、お……はなせ…………」
 パッと手を離すと彼の表情がゆるむ。
 あれだけ愚痴をこぼしておきながら、無意識に名前を呼ぶのはやっぱり弟の名前なのだ。
 結局そういうこと。この感情が恋だったとしても互いの一番にはなれない。なりたいとも思わない。恋心が愛に勝るなら真剣に挑んでみたっていいけれど、果たして可能性はあるのだろうか。この種が芽吹いたとして、実を結ぶまでに至るだろうか。俺は水をやるのに躊躇したまま立ち尽くしている。ずっと遠くから、なにか眩しいものを見るような眼差しで彼を見つめている。まぶたの裏で青い炎がきらめく。それはサタンの証。ひどく恐れる一方、美しいと思っている自分がいる。
 けれど、もし青い炎がこちらに向けられたとき――そのとき俺は迷わず坊を守るため錫机を彼に向けるだろう。命は惜しい。けれど俺は坊のためなら死ねる。考えるより先に体が動く。でも、たぶん奥村くんのためには死ねない。仲間として助けることはあるかもしれないけれど、彼のためを思って行動するときは、きっと彼を殺すときだ。彼が完全に向こう側へ行ってしまわぬよう、万が一のときはせめて彼が人間らしい心を持っているうちに手を下す。それは弟の役割かもしれないし、坊も考えていることかもしれない。それでも愛情や友情には慈しみがある。凶器になり得るのはトチ狂った恋心じゃないだろうか。
「堪忍なあ、奥村くん」
 囁き、ゆっくり立ち上がる。猫又が不思議そうに俺を見上げていた。