金持ちだらけの正十字学園でビニール傘を広げる人間は少ないが、志摩は空が見えるビニール傘がわりと好きだった。天気予報は晴れのち雨。降水確率は五十パーセント以上。大半の生徒は傘を持って登校していたし、鞄に折りたたみ傘を忍ばせていた。授業を終えて昇降口にやってきた彼らは、色とりどりの花を頭上に咲かせて帰っていく。このまま自分も寮に帰り、雨音を子守歌に惰眠を貪りたいところだ。しかし放課後は塾での楽しい勉強が待っている。志摩はため息を吐き、ビニール傘の紐を外した。みんな傘を広げるのに手間取っているのか昇降口はいつもより混雑している。四方を囲まれた志摩は人波をかき分けて先頭に躍り出た。そこには傘を持たない燐がいた。一歩踏み出した燐のつま先が雨に濡れる。志摩はとっさに手を伸ばし、燐の腕を掴んだ。屋根のあるところまで引き戻すと、ようやく燐は志摩に気づき、気の抜けた表情をした。
「なんだ志摩か」
「奥村くん、傘は? 持ってへんの?」
 見ればわかるだろうと言いたげに燐は頷いた。
「天気予報で雨降るって言うとったのに」
「持ってくるの面倒じゃん。本当は雪男の傘に入れてもらうつもりだったんだけど、アイツが掃除当番だってこと忘れててさ……先生のくせに掃除当番ってなあ」
「奥村先生かて俺らと同じ高校生なんやし当然やろ」
「そうだけど……」
 燐はおかしそうに笑い、ひょいと首を傾げた。
「そういえば何?」
「え?」
「なんか用あるんじゃねーの」
「ああ……」
 引き留めた理由を尋ねられているのか。いつの間にか人影も少なくなった昇降口で、志摩はひどく緩慢な動作で傘を広げた。
「はい、どうぞ」
 燐は思わずビニール傘と志摩を見比べた。みんなから敬遠されている燐にとって、志摩の申し入れは思いがけないことだった。
「いいのか?」
「野郎と相合い傘でもよければ」
 志摩はからかうような笑みを浮かべ、外に一歩踏み出した。雨粒が一気にビニールを叩く。燐は跳ねるように志摩のとなりに並び、両手をポケットに突っ込んだ。二人して降りしきる雨のなかを歩く。
 志摩は自分よりも僅かに低いところにある燐の鼻先を眺め、それから濡れた革靴を見つめた。踵に泥がついている。子供みたいだ。密かに観察していると、燐の青い瞳がひょいと志摩の顔をのぞき込んだ。
「おまえ今日は一人なんだな。珍しいじゃん」
「別に……四六時中ひっついてるわけやないし」
「勝呂は休み? 子猫丸は?」
「二人とも奥村先生と同じ掃除当番です」
 志摩は目を伏せ、青い瞳から逃げた。濡れた地面にはいつしか水たまりが作られ、不規則なリズムが波紋を描く。
 座主血統のしがらみに捕らわれた勝呂。小さな体に三輪家当主としての責任を背負った子猫丸。志摩家の人間とはいえ五男である自分は、二人の重圧がどれだけのものか想像はできても理解できない。ただ見守るしかできない。自分たちは幼い頃から明陀という深く、狭い世界で、ずっと三人で過ごしてきた。顔を突き合わせれば嫌でも明陀のことを思い出す。明陀のためここにいるのはわかっているが、それではいつか息が詰まってしまう。勝呂も子猫丸も真面目すぎるのだ。
「たまには息抜きも必要やろ」
「え、なに? おまえのこと?」
「……俺?」
「おまえらいっつも三人でつるんでてかったるそうじゃん。俺もずっと雪男と一緒だからわかるよ。あ、別に雪男が嫌いとかじゃなくて……おまえもそうだろうけど、一人になりたいときだってあるだろ? 息抜きってやつだよ」
 燐の言葉に志摩は目を瞬かせた。
「せやなぁ……ほな今度、奥村くんと俺で一緒に息抜きしよか」
「なんだよ息抜きって」
「そら決まってるやろ……」
 耳元にくちびるを寄せて卑猥な単語を吐く。燐は健全な青少年らしく目を輝かせ、志摩と肩を組んだ。
「雪男のパソコン借りて俺の部屋で見ようぜ」
「奥村先生の? 許してくれるやろうか」
「息抜きなんだから雪男のいないときに見るんだよ」
「奥村くんが全責任を負うてくれるならええけど」
「任せとけって。期待してるぜ、志摩」
 隠し持っているマル秘DVDのラインナップを思い浮かべながら、志摩は燐との他愛ない会話に花を咲かせた。燐の言うとおり息抜きを必要としているのは自分なのかもしれない。もちろん勝呂と子猫丸のことが嫌いなわけではない。その逆だ。家族のように、それ以上に思っている。勝呂に至っては命を捧げる覚悟まである。半身のような存在なのだ。恐らく燐にとっての雪男も。だから、すこしでも長く一緒にいられるよう時々は離れてみたくなるのだ。離れれば恋しくなる。離れても尚、その存在を感じるほど大切なひとだと気づける。
 志摩は人知れず笑みをこぼし、ビニール越しに天を仰いだ。遠くの空が明るい。もうすぐ雨は止むだろう。帰りは夏のにおいがたちこめた空気を肺いっぱいに吸い込んで、雨上がりの道をみんな一緒に並んで帰ろう。