僕の夢はきらめく青の世界。兄さんの瞳と炎だけが色を持っている。それら以外のすべては灰色に染められ、瓦礫と化す。僕を脅かすものは青い炎にのまれて消える。モノトーンと青で構成された世界は美しい。
 僕は空中遊泳しながら兄さんの姿を追う。濃度を増した漆黒の髪に、空の青を吸い込んだような双眸。その両手はかつて僕を守るためにあった。まっすぐな二本の足は僕のもとへ駆けつけるために存在した。けれど、もう僕だけのものじゃない。僕はそれらを必要としなくなった。兄さんが守りたかった僕はもういない。
 空中遊泳に飽きた僕は荒れた大地を踏みしめた。灰色の地表に終わりは見えない。この世界はどこまでも続いていて、どこにも繋がってない。
 青い炎は対岸で燃えていた。兄さんの姿は見えない。ただ明るい炎だけが僕を呼んでいる。
「きれいだな……」
 口にした途端その形容詞は言霊のような効力を発揮し、神の奇跡のごとくサタンの証をきらめかせた。言葉にならないほど美しい光。僕は力なく立ち尽くし、光の群れに目を凝らした。瞬きするのさえ惜しい。
 僕はゆっくり手を伸ばし、遠いところにあるはずの熱を指先に感じた。爪をチリリと焼くように青い炎が薬指に絡みつく。炎は心臓までも焼き尽くすように全身を包んだ。けれど熱くはない。やわらかな熱は兄さんのぬくもりに似ている。体温を確かめようと手を伸ばす。炎はこんなにも近く、僕を包むのに、兄さんの影は遠い。僕たちの間には見えない溝がある。乗り越えようとすれば無数の手に引きずられ、深淵に落ちていくだろう。その暗闇から不意にドス黒いものが這い出てきた。得体の知れない固まりは兄さんの炎を覆い、青く瞬く双眸を抉ろうと形を鋭角なものへと変える。気づくと僕は両手に銃を持っていた。ドス黒いものを狙おうとして、銃口が兄さんに向いていることに気づく。引き金に掛けた指が震えていた。僕を包んでいた青い炎は不気味なほど静かに揺らめき、燃えている。足下の深淵が手招きする。
 兄さんの悲鳴。銃声の残響。世界は、色を失った。

 心臓が鷲掴みされたような痛みに雪男は目覚めた。なにか、とても恐ろしい夢を見ていた気がする。父が死んで以来このような目覚めを何度か経験した。だが、いつも夢の内容は覚えてない。現実に引き戻された瞬間、砂の城のように跡形もなく消え去ってしまう。雪男のもとに残っているのは恐ろしいという感覚だけだ。
 詰めていた息を吐き出し、顔を両手に埋める。あまりの冷たさにぞっとした。とても人間の体温だとは思えない。寒い。膝を折り、背中を丸め、雪男はブランケットのなかで胎児のようだった。目を閉じると自分の心音が聞こえてくる。鼓動が世界を揺らしているようで気持ち悪い。目を閉じ、雪男は耳をふさいだ。ごうごうと唸るような音に気が狂いそうになる。それは燃え上がる炎のようにも聞こえた。
 雪男は堪らず起き上がり、膝を抱えた。視界の端に入った時計によれば、驚いたことにベッドに入ってから数時間も経っていない。夜明けまで随分とある。首を巡らせて部屋を見渡してみるが、すべては闇に閉ざされ、自分の輪郭さえ見失ってしまいそうだった。向かいのベッドに燐がいることさえ今の雪男には確認しようがない。この規則正しい呼吸音が燐のものであるということも証明できないのだ。もう闇に脅えることなどないと思っていたはずなのに、恐怖という名の怪物がひたひたと雪男の頬を撫でさする。レンズを通して見ない世界はひどく曖昧で、雪男をより不安にさせた。
 ゆっくり立ち上がり、頼りない幼子の足取りで燐を目指す。まるで似ていない双子の兄を見下ろし、雪男は闇を探るように目を細めた。邪気のない寝顔。規則正しい呼吸。闇を背負いながらも燐はいつでも明るく健やかで、心には不器用な正義があった。サタンの寵児でありながら、光のなかを歩いていたのは兄のほうだ。兄を守るため、悪魔を滅するため闇のなかに身を投じた雪男にとって、その光は眩しくもあり、尊く、遠いところにあった。雪男はいつしかずっと暗闇のなかで佇んでいた。
 ふと瞬く、青い光。燐の双眸が雪男を捉えた。
「なんだ、雪男……またこわい夢でも見たのか…………?」
 こわい夢を見て兄のベッドに潜り込んでいたのは遙か昔のことだ。雪男はきゅっとくちびるを引き結び、踵を返そうとした。それを燐の腕が引き止める。まどろんだ燐の表情は随分と間抜けで平和そのものだった。それでも懸命に目を凝らし、雪男を見ようとしている。
「ほら、こっち来い」
「ちょっと兄さん……」
「一緒に寝ればこわくないだろ」
 狭苦しいベッドに引き込まれた雪男は、すぐに寝息をたてはじめた燐を恨めしく見つめた。無防備な横顔だ。たった一人の弟に銃を向けられ、死を願われたことなど忘れているだろう。
 天井を仰ぐ。深い黒だと思っていた闇は目が慣れたのだろう、仄かなものに感じた。微かに聞こえる呼吸は燐のもので、触れる体温も鼓動も確かに燐のものだった。目を閉じる。青い炎がチカチカとまぶたの裏で瞬いている。雪男は目眩を覚えた。嗚呼なんてことだろう。
「僕には兄さんしか見えない」