梅雨真っ直中の今日、六月二十一日は日向の誕生日だ。
 一番に祝ったのは田中と西谷の二年生コンビ。それから菅原が「日向の誕生日だって」と他の部員に呼びかけ、みんなでバースデーソングを歌った。月島は「年取っても身長は伸びないね」と皮肉を言って山口と一緒に笑っていたが、歌にあわせて手拍子するくらいには祝う気持ちがあったようだ。上級生の目を気にしてのことだろうが、はじめて烏野のジャージを着た時のように月島はなんだかんだ素直なところがある。
 しかし、まだ祝いの言葉を告げてない部員がいた。影山だ。
 登校した日向と真っ先に会ったのは、田中でも西谷でもなく影山だった。どちらが体育館に一番乗りするか競争している彼らは、今日も我先にと体育館へ乗り込み、着替え、いそいそとネットを張って練習を始めた。その間いくらでも言うチャンスはあったのに、影山はタイミングを計りすぎて逃してしまった。
 ちょっと前なら気軽に言えただろう。誕生日プレゼントだって坂ノ下商店でちょちょいと選んで済ませただろうし、用意できなければトスでも上げてやろうと思ったはずだ。けれど今は、それでは駄目なのだ。恋人として許されない。
 ごく自然と浮かんだ「恋人」という単語に影山は赤くなった。手の中のボールを回し、どうにか心を落ち着かせる。だって信じられるだろうか。十六年間バレーボール一筋。そんな自分に彼女をすっ飛ばして彼氏ができるなんて夢にも思わないし、日向と恋人同士になるなんて誰が想像しただろう。
 影山は恋人であることを意識しすぎるあまり言葉を失った。誕生日プレゼントも迷った挙げ句、結局買えなかった。
 自分はこんなに優柔不断な人間だっただろうか。影山はボールを胸に抱え、ため息を吐いた。日向に好きだと言われ、潔く「じゃあ付き合おう」と答えた自分はどこに行ってしまったのだろう。

 放課後の練習が終わっても影山は口を閉ざしたままだった。
 日向はいつものように影山のトスを呼び、楽しそうにボールを追いかけていた。今も西谷にガリガリ君をおごってやると言われ喜んでいる。
 ああ、そうか――俺がなにも言わなくたってアイツは平気なんだ。影山はゆっくり目を瞬かせ、笑顔の日向から目をそらした。恋人からおめでとうの一言もないのに、日向はちっとも気にならないのだろうか。拗ねたり悲しんだり、そんな様子が全然ない。影山の頭はパンク寸前だった。恋人とは、付き合うとは、一体なんだろう。恋人の誕生日は特別だと考えていたけれど、それは間違いなのだろうか。彼女いない歴イコール年齢の影山には全くわからなかった。
「影山!」
 呼ばれ、影山はハッと顔を上げた。そして少しだけ目線を下げる。日向だった。
 日向はキラキラした眼差しのまま影山にボールを押しつけた。練習を終えて片づけたはずなのに何故、と影山は首を傾げる。
「……なんだよ」
「トス100本、俺にくれ」
 田中が「誕生日プレゼントだってよ」と言った。随分ハードな贈り物だと笑いが起きる。
 影山はふっと口角を上げた。胸元に当たるボールの感触が心地好い。さっきまで胸に渦巻いていたわだかまりが消えていく。
「途中でバテるなよ」
「そっちこそ」
 日向が顧問の武田に体育館の使用許可を求めると、武田はあっさり日向の願いを受け入れた。体育館の使用については時間厳守がルールだ。見回りの守衛に武田が頭を下げてやっと延長できるか否かという状態なのに、こんな簡単でいいのだろうか。違和感を覚えた影山はふと時計を見上げ、なるほどと納得した。いつもよりはやく練習が終わっている。どおりで物足りないはずだ。
「じゃあ俺達、先に帰ってるから」
「二人とも明日の朝練に遅刻したりすんなよ」
 みんなの素振りから察するに、このトス100本について知らなかったのは影山ただひとり。なんだか誰の誕生日かわからなくなるサプライズだ。
 体育館で二人きりになった日向と影山は、ひたすらトスを上げてスパイクを打った。カゴが空になったらボールを拾い集め、また日向が飛ぶ。やがて影山のトスにも乱れが生じ始めた。それでも日向は必死に食らいつき、影山のトスを呼び続けた。
「きゅーじゅ、きゅうっ」
「ひゃーっく!!」
 最後のスパイクを決めた日向は転がるように着地した。
 影山は額の汗を拭い、軽く息を整えてからネットの向こう側へと移動した。
「日向、片付け」
 影山はいくつかボールを拾ってから日向に声をかけた。さすがにひとりで片付けるのはつらい。
「だりー」
「俺だってだりーよ。いいから起きろ。ボールを拾え」
「わかってる!」
 跳ね起きた日向は雄叫びを上げながらボールを拾い集めた。影山も負けじと続き、ボールはみるみるうちに片付いた。その勢いでネットを畳み、モップをかける。慌ただしく着替えを済ませた二人は職員室に駆け込み、武田に体育館の鍵を返してサヨナラを告げた。

「日向、誕生日おめでとう」
 珍しく晴れた夜空の下、さらりと口をついた言葉に驚いたのは、日向ではなく影山だった。あれほど言うタイミングが掴めなかったというのに。
 ところが日向は、喜ぶどころか「やっと言ったな」と大袈裟に頭を振った。
「忘れてたわけじゃねーから」
 影山は居心地悪そうにくちびるを尖らせ、そっぽを向いた。その横顔を見つめて日向が笑う。
「知ってる。ずっと言おうとしてたろ? いつ言ってくれんのかなあってそわそわしてた」
「全然そんな風には見えなかったぞ」
「自分から祝ってくれなんて言えるわけないじゃん。カッコ悪い」
 照れくさそうな日向にこちらまで恥ずかしくなる。影山は照れ隠しに頭を掻き、わざとぶっきらぼうに言葉を続けた。
「あのさ、プレゼントなんだけど」
「うん」
「なにがいいか全然わからなくて買えなかった。すげえ悩んだけど選べなかった。ごめん」
「……影山が謝った」
「茶化すなよ」
「いや、そうじゃなくて。なんで謝んの? 影山はおれの誕生日ちゃんと覚えててくれたじゃん。それで十分だよ。トス100本もくれたし」
「そんなんでいいのかよ」
「おうっ」
 悩んでいたのが馬鹿らしくなるくらい日向の笑顔は清々しい。
 影山は思わず笑みをこぼして足を止めた。つられて日向も立ち止まる。カラカラと鳴っていた車輪の音が消えると本当に静かだ。耳の奥まで静寂が届いて、すこしキンとする。
「影山?」
「……やるよ。誕生日プレゼント」
「え?」
「ちょっと目ェ瞑ってろ」
 襟刳りを掴まれ引き寄せられる。日向は、もちろん瞬きひとつせずに影山を見つめていた。眉間に刻まれたしわが愛らしいと思う。トスは気持ち悪いほど精密なのに、キスはひどくぎこちない。
 くちびるが離れた瞬間、目と目があった。影山の顔がたちまち朱に染まる。
「なんで目ェ開けてんだよ、ボケ」
 影山の抗議を日向は笑う。
 自転車さえ引いていなければ今頃ぎゅっと抱きしめていた。そして手をつないで帰っただろう。ただ、それは叶いそうにもないから。世界を止めて、もう一度キスを。