「トビオちゃんが男とキスしてる」
 坂の下から聞こえた声に日向と影山は飛び上がりそうになった。
 軟派で、どこか威圧的な声。影山にはとても馴染みがあるものだった。うんざりするほど名前を呼ばれ、恐怖すら覚えた。甘ったるい、声。
「及川さん」
 影山は反射的に及川の名前を呼んだ。雛鳥がはじめて見たものを親と認識するように、影山にとっての“はじめて”は及川だった。共にバレーをしたのは半年にも満たないが、及川の支配力と影響力は絶大で、影山は及川を前にすると今でもたじろいでしまう。一歩、また一歩と近づく及川から影山は目を離せなかった。
 一方、日向はキスを見られた衝撃から抜け出せず、自転車のブレーキを握りしめて突っ立っていた。まだ心臓がうるさい。
「どうしてこんな所にいるんですか」
 影山が訊ねると、及川はやわらかな笑みを浮かべて首を傾げた。
「メール見なかった? 練習終わったら会いに行くよって送ったんだけど。ほら、修学旅行のおみやげ渡そうと思ってサ」
 暗闇の中、及川の双眸が鈍く光る。
「まあ、歩いてくる俺に気づかないくらいだからメールに気づくわけないか」
「…………」
「ここに来る途中キャプテンくんに会ってね。坂ノ下商店だっけ。みんなでパーティーの準備してたよ。烏野って仲良いんだね。チビちゃんの誕生日なんだって? おめでとう」
 祝福の言葉が尖ったナイフのように感じるのは気のせいだろうか。日向は反応に困って影山に視線を投げたが、影山はそわそわ落ち着かない様子で及川を見つめるばかり。日向には気がつかない。
「トビオちゃんはどこですかーって訊いたら学校だって言うからさ、迎えに来ちゃった」
 ついに影山の真正面に立った及川は、つと影山の濡烏を撫でて日向を見た。咄嗟に俯いた日向の視界に及川のつま先が飛び込んでくる。及川のローファーは運動部のものとは思えないほど綺麗で、艶々と磨かれている。自分の薄汚れたスニーカーとは大違いだと日向は思った。
「トビオちゃん、また背伸びた? 成長期ってこわいね。このままだと抜かされるかな」
「ちょっと及川さん、やめてくださいよ。髪ぐしゃぐしゃになる……」
「ぐしゃぐしゃにしてやってんの。トビオちゃんって将来ハゲそうな髪質だよね」
「及川さんにだけは言われたくないです」
「ほんっとーにクソ可愛いよね、トビオちゃん」
「いい加減にしてください」
「ひどいな。ファーストキスの相手につれないんじゃない?」
 上から降ってくる声に日向は思わず顔を上げた。
「……は? 今なんて」
「だからトビオちゃんのファーストキス、俺が奪っちゃった」
 語尾にハートマーが見える、と日向は思った。軟派で、どこか威圧的で、自信に満ちあふれた余裕のある声が「トビオちゃん」と発音するたび日向の鼓膜はむず痒くなる。
 日向の眉間にしわが刻まれたのを見て、影山は慌てて口を開いた。だが、それはすぐ日向の声に遮られてしまった。
「男とファーストキスって影山かわいそう」
 日向の言葉に及川と影山は顔を見合わせた。
「それ君が言うの?」
「だって俺、影山以外の男に全然キョーミないし」
 キッパリ断言した日向の横顔を見つめ、影山の耳朶は僅かに熱を帯びた。
「影山が大王様のこと好きだったんなら、ちょっと……イヤ、かもしれないけど。こういうの初めてでよくわかんねえっていうか……」
 日向は影山がよくやるようにくちびるを尖らせた。
「大王様と影山は付き合ってたんですか」
「そうだったら面白いんだけどね」
 及川は笑って、鞄から長方形の箱を取り出した。白い箱には茶色のリボンが巻かれている。
「トビオちゃん、これチョコレート」
「あ、ありがとうございます……」
 影山はぎこちなく及川からのプレゼントを受け取った。
「大丈夫。毒は入ってないから」
 チョコレートは東京で有名な店のもので、クラスの女子から店のことを聞き、かわいい店員に勧められてつい買ってしまったのだと及川は言った。俺には甘すぎるからトビオちゃんにあげる、と。
「それよりトビオちゃん、はやくチビちゃんを店に連れていきなよ。パーティーの準備ってチビちゃんのためなんデショ。みんな待ちくたびれてるんじゃない? ほら、自転車があるんだからにけつしていきなよ。トビオちゃん乗った乗った」
 日向と影山を自転車に乗るよう急かし、及川はひらりと手を振った。日向がゆっくりペダルを漕ぐ。影山は遠ざかる及川を見つめ、やがて背を向けた。
 及川はポケットに両手を突っ込み、ローファーの踵で地面を踏みつける。
「俺だってトビオちゃん以外の男に全然キョーミないし」
 消えゆく背中につぶやいた声は届かない。
 坂の上に取り残された及川は吐息をもらし、六月の空を仰いだ。星座のことなどちっともわからないけれど、星は瞬いて、いつもそこにある。そう思っていたはずなのに。きっと、この手にあったのは流れ星だった。