ネコの脳として機能するようになってから、おれの世界は変わった。
 うるさい三年生が引退したからだろうか。あんなに居心地悪かったコートに立っていることが最近はすこし楽しい。今でも運動するのは好きじゃないし、体育会系のノリは苦手だ。だけど信頼されるのは気持ちよかった。敵を観察して叩きだした予測にチームメイトは耳を傾け、そして行動してくれる。こんなどうしようもないおれにも存在価値があったんだと思える。でも、それが嬉しいわけじゃない。喜びもなかった。運動して汗水垂らすより家でゲームをして遊びたいし、人と向かい合うより携帯を弄っているほうが楽でいい。
 じゃあ、どうしてバレーを続けているのか。答えは簡単だ。クロが居る。たったそれだけの理由で、おれは今日もコートに立っている。

 練習のない日、研磨は家でゴロゴロして過ごす。黒尾にはだらしないと怒られるけれど、休日くらいは自由にさせてほしい。
 研磨はベッドの上で寝返りを打って、何とはなしに携帯を見つめた。液晶はどうでもいい情報で溢れかえっている。退屈で仕方ないのに、他にやるべきことがない研磨は惰性で画面をスクロールしようとした。その瞬間、手から携帯が消えた。
「……クロ」
 緩慢な動きで振り向いた研磨は、突然の来訪者に驚いた様子もなく瞬きを繰り返した。黒尾がアポ無しで来ることは日常茶飯事だ。たとえ窓から入ってきたとしても研磨は平然と迎えるだろう。
 上下する研磨の睫毛をしばらく観察していた黒尾だったが、ちっとも動こうとしない幼なじみに吐息をもらした。
「起きろ。もう昼過ぎだぞ」
「起きてるよ」
「ベッドから離れて言え」
 黒尾の言葉に研磨は仕方なく起き上がり、ぺたりと床に座った。それから右手を差し出して携帯の返却を求めた。けれど黒尾は応じず、つと研磨の髪を摘まんで離した。艶やかな黒が踊る。研磨は小首を傾げ、何やら考え込んでいる黒尾を見上げた。
「クロ?」
「髪、染めるか」
 問われているのか決定事項を告げられているのか。黒尾の表情からは判断できない。研磨は思わず目を逸らして背中を丸めた。
「嫌だよ、そんなの」
 髪を染めれば教師の心証も悪くなるだろうし、上級生にどう思われるか考えるだけで恐ろしい。同級生からも突然どうしたんだと笑われるだろう。何より自分は髪を染めるようなキャラではない。
「染めるならクロが染めればいいじゃん」
「俺はネコの血液だからこのままでいいんだ。目立つ必要はない」
「意味わかんないよ」
「お前はネコの脳だ。脳は中枢。俺達は血液となってお前のために駆け巡る。だから目印だよ。皆にお前の存在を示す為のな」
「目立つのは嫌いだ」
「知ってるよ」
 頭を撫でられ、また研磨は俯いた。
「きっと似合わない」
「似合うさ。お前に合うのを選んだからな」
「染める奴もう買ってあるの?」
「家に準備してある」
 黒尾がドアに向かってゆっくり歩きだす。その背中を研磨が追いかける。幼い頃からそうだった。何をするにも黒尾と一緒。いや、黒尾がいなければ何もしなかった。部屋に籠もり、ひとり静かに無機物と向き合う毎日。単調で、変化のない穏やかな時間。そこに黒尾が現れた。問答無用で外に連れ出され、バレーに付き合わされた。黒尾は昔からリーダーシップが強く、皆から尊敬され、人気があった。なんの取り柄もない自分が黒尾の隣にいることが研磨には不思議だったし、すこし窮屈に感じてもいた。いつも周囲から「黒尾鉄朗の隣にはどうしてアイツがいるのか」と責められ、嘲笑されている気さえした。一度、周囲が思っていることを黒尾に直接ぶつけてみたことがある。どうして自分なのか、と。いつ訊いたのか自分でも覚えてない。本当に、不意に質問したのだ。脈絡がないと思われただろう。しかし黒尾は研磨の言葉から全てを察し、恥ずかしげもなく答えた。お前は俺の脳で、心臓だと。
「……変なの」
 鏡を覗き込んだ研磨は恐る恐る自分の髪に触れた。自分の内面とは真逆の明るい色だ。まるで別人のようでおかしい。
「皆になんて言われるかな」
「イメチェンだって言えよ。似合ってるぞ」
 黒尾は満足そうに研磨を見下ろしている。何をやらせてもそつがない黒尾は、ブリーチもカラーリングもお手のもの。研磨の髪はきれいに染められていた。
「でも、なんで突然? 髪なんか染めなくたって今のチームはおれのこと認めてくれてるのに」
「そうだな。でも、これから試合が多くなるだろう。より存在をアピールして敵にも舐められないようにと思ってな。インパクトは大事だ」
「髪を明るくしたくらいじゃ変わらないよ。おれがチビなのは事実だし、外見だけ格好つけても結局おれは皆より下手なんだから」
「自分を軽んじるなよ、研磨」
 黒尾の唸りに研磨の鼓膜は震えた。威圧的で、それでいて優しい声。苛立ちと悲しみがない交ぜになった複雑な音は、恐らく研磨にしかわからないだろう。それは何年も同じときを過ごした者だけに聞こえる音だ。
「お前はネコの“背骨”で“脳”で“心臓”だ。お前が欠けたら俺達は機能しない。わかるだろう? 俺達にはお前が必要なんだ」
 そう言って黒尾は、まだ湿り気を帯びた研磨の髪に触れた。金糸はつるりと指をすり抜けていく。行き場を失った手は滑らかな頬を撫で、薄い唇をなぞった。
「違うな。俺達じゃない」
「え?」
「お前を必要としているのは俺だ」
 黒尾は吐息にも似た微笑をもらした。
「なあ、研磨。お前はネコの脳だけど、俺にとってもそうだってことを忘れるなよ。お前は俺の脳で、心臓だ。お前が居なくなったら俺は死ぬ」
「……大袈裟だよ」
「大袈裟なもんか。いいか、研磨。お前は俺の心臓だ。だから俺から離れて迷子になったりするなよ。……まあ、前より見つけやすくなったけどな。どこに居てもすぐわかる」
 黒尾は笑って研磨の髪をかき乱した。
「もしかして髪染めた一番の理由ってそれ?」
「どうかな」
 片付けをしてくると言い残し、黒尾は部屋から出て行った。
 ひとり残された研磨は黒尾のベッドに寝転がり、体を丸めた。黒尾の声が、耳の奥で旋回している。
「俺が、クロの脳」
 そして心臓。すなわち命。これほどの言葉があるだろうか。はじめて聞いたわけではないのに、ようやく意味を理解した気がする。
 幼い頃から一緒にいた。迷子になっても必ず見つけてくれた。離れたくても離れられなかった。どうして黒尾の隣にいるのが自分なのか。問うたことはあっても考えたことはない。けれど今わかった。それは互いの存在を必要としていたから。ひどく求めていたから。研磨が黒尾の脳なら、研磨の血液は黒尾だ。血液が滞りなく流れなければ脳は機能しない。つまり、そういうことなのだ。出会ったときから決まっていた。脳と血液。どちらが欠けても生きていけない。
 研磨はネコのようにうずくまって目を閉じた。
「はやく来てよクロ」
 そうしなければ、きっと死んでしまう。