北川第一中学校は数日後に文化祭を控え、多くの生徒が準備に追われている。そんな慌ただしい放課後でも、強豪として県内に名が知れているバレー部の練習は変わらずあった。
 三年生は引退しているためチームは二年生主体だ。しかし、この体育館で一際異彩を放っているのは一年生の影山飛雄だった。正確なトス、力強いサーブ、レシーブやブロックも抜群だ。スパイクだって決められる。影山は一年生で唯一レギュラーに選ばれた人間だった。新体制になってからも彼はコートに立ち続ける。それが二年生には面白くない。特に影山と同じセッターの二年生は諦めを覚え、絶望すらしていた。影山の存在が気に食わない一年生もたくさんいる。なんでアイツだけ。アイツさえ居なければ。そんな声が体育館には響いていた。いつしか彼らは、影山を横暴で独裁的な「コート上の王様」と呼んだ。
 金田一もそのひとりだった。ポジション柄、金田一は影山と接する機会が多い。無茶なトスを寄越され、暴言を吐かるのは日常茶飯事だ。金田一は文句を黙って聞いている性分ではないから、影山と言い合いになることが少なくなかった。他の一年生は影山の高圧的な態度に苛立ち、恐れ、コソコソ文句を垂れるものの影山本人にはあまり口答えしない。国見のようにそれなりに意見する者もいたが、彼らは金田一ほど熱くはなかったし、真剣に抗議することはなかった。王様という呼び名が浸透した今、影山に向かっていけるのは金田一だけだ。
「影山の奴、今日は大人しいな」
 金田一の言葉に国見はチラッと影山を見た。影山は今日も気持ち悪いくらい精密なトスを上げ、同級生には容赦なく怒鳴っている。元気に王様をやっているようにしか見えない。国見は金田一の見解に首を傾げながら「文化祭が近いからだろ」と答えた。
「影山のクラスはロミジュリやるんだっけ」
「そうそうロミジュリ」
 影山のクラスは箝口令でもしいているのか題目以外の情報がまるで掴めていない。劇の内容を訊ねても、誰しも笑いを堪えて「お楽しみに」と答えるだけなのだ。ところが国見は何やら知っている様子だった。影山のクラスメートのように笑いを堪えている。
「影山の奴ロミオでもやんの?」
「それが……」
 国見が金田一に耳打ちする。答えを聞いた金田一は堪らず吹き出してしまった。
「王様がジュリエットとかねーわ」
「バカ、言うなって」
 二年生から真面目にやれと叱責され、二人は慌ててボールを拾いに走る。笑いは止まらなかった。
 影山のクラスがやるのは男女逆転ロミオとジュリエット。面白いという理由だけで、ロミオは一番小柄な女子が、ジュリエットは一番デカい男子すなわち影山が抜擢された。影山より大きい金田一は、影山のクラスにならなくてよかったと心底思う。
 だが、これで納得した。影山が大人しい理由はジュリエットを演じなければいけないからだ。ジュリエット役に選ばれたことは大して気にしてないだろう。服装に頓着しないのだからスカートを履くことには抵抗なさそうだし、女装してからかわれることを憂うような繊細さを影山は持ち合わせてない。股がスースーして落ち着かないと文句は言うかもしれないが、クラスメートの女子に着てと言われればノーと言えないはずだ。練習に身が入ってないように見えるのは、恐らく台詞が覚えられるかどうかを気にしているからだろう。影山は頭が悪い。バレーに関する知識は人並み以上にあるが、勉強はからっきし駄目だ。影山にとってシェークスピアの台詞を覚えることは、全国優勝するより難しいことなのではないか。台詞を忘れ、ドレスのまま舞台に突っ立っている影山が金田一には容易に想像できた。

 ようやく練習が終わり、金田一は文化祭の準備をするため足早に教室へと向かっていた。
 大半の運動部は文化祭の準備を優先させて活動を休止している。バレー部のように文化部でもないのにしっかり活動する部は稀だ。
 練習時間を短くしているとはいえハードな練習の後では疲れも残るし、積極的に準備を手伝うことは難しい。だが、すこしでも顔を出しておかないと反感を買ってしまう。特に女子は口うるさい。
 教室からは楽しそうな声やサボっているだの何だのと口論が聞こえ、校舎には青春を凝縮した空気が漂っていた。
 部活さえやっていなければ、と金田一は思う。そうすれば、もうすこし甘酸っぱい青春を送れたかもしれない。けれど、やはりバレーは楽しい。せめて高校までは続けたいし全国で頂点を極めたい。なんだ、しっかり青春しているじゃないか。金田一の表情は自然とゆるんだ。
 その時すぐ近くの教室から影山が出てきた。練習後はいつもジャージのまま帰っているが、今日は珍しく制服姿だ。影山はボサボサになった髪を撫でつけ、金田一と向き合った。気配に全く気付いていなかったのか影山の肩がビクッと上下する。
 金田一は横目で教室を覗いた。どうやらフィッティグ作業が大詰めのようだ。ウィッグを被った男子、剣を握った女子がはしゃいでいる。ボサボサだった髪から察するに影山もウィッグを被り、ドレスを身に着けていたのだろう。
「衣装合わせか」
「おう。……見た?」
 影山は居心地悪そうにくちびるを尖らせた。見たと言ってやりたい気もするが、金田一は正直に首を振った。誰かが箝口令を破り、男女逆転ロミオとジュリエットのうわさは校内を駆け巡っている。そのことが影山本人の耳に入らないわけがない。金田一の返事に影山はあからさまに安堵していた。さすがの影山もチームメイトに女装を見られるのは恥ずかしいようだ。意外とデリケートだな。皮肉ではなく、それが金田一の素直な感想だった。
「影山」
「なんだよ」
「お前セリフ覚えられんのか? 暗記とか苦手だろ、単細胞だし」
 影山はグッと言葉を詰まらせ、金田一を睨んだ。顔が赤い。なんだ? 金田一は怪訝な表情を浮かべた。図星をつかれて怒っているのだろうか。
 金田一は影山を見下ろし、ふと手伝ってやろうかと口にした。
「……は?」
「俺が練習相手になってやろうか」
 影山は目を見開き、しばらくフリーズした後ようやく口を開いた。
「練習相手ならちゃんといる」
「だよな」
 ジュリエットにはロミオがいる。これから二人で練習するところだったのかもしれない。
 金田一は影山の肩を叩き、道を譲った。
「トチったら笑ってやるよ」
「ふざけんな」
 すれ違い様、金田一は影山の蹴りを食らった。よろけつつ廊下を走っていく影山の背中を見送る。あんな図体のデカい、可愛くないジュリエットがいてたまるか。
 金田一が体勢を立て直すと、教室から「嗚呼ロミオ!」と大袈裟な声が聞こえてきた。ひょいと中を覗いてみると、女子ふたりが教壇の前で向かい合っていた。ひとりは制服姿で、もうひとりは王子様のような格好をしている。どうやら劇の練習をしているようだ。制服姿の女子が長々と台詞を言う。時たまロミオという名前が聞こえた。この台詞はジュリエットのものだが、彼女は裏方か何かだろう。恐らくもうひとりの女子の練習に付き合っているのだ。もうひとりの女子が「ジュリエット!」と叫ぶ。ロミオはクラスで一番ちいさな女子が演じることになっている。彼女はとても小柄だった。そして王子様のような格好をしている。どう考えても彼女がロミオだ。
 金田一は首をひねった。
 ロミオはここにいる。さて、ジュリエットはどこに消えた。

 教室を抜けて、学校を飛び出して、駆け込んだ先はマンションの一室。ここに来るのも随分と慣れた。影山は乱れた息を整え、一呼吸置いてからインターホンを押した。ノドの奥がすこしヒリヒリする。耳も痛い。風に吹かれて四方八方に散らばった髪を揃え、ドアが開くのを待った。
 しばらくすると開錠の音がコンクリートの廊下に響く。中から手招きされ、影山は礼儀正しく挨拶してから靴を脱いだ。
 及川の部屋は玄関から入ってすぐ左手にある。机とベッド、床にコンポがあるだけの部屋はいつもきれいだ。つい服を脱ぎ散らかしたり雑誌を放置する自分とは大違いだ。影山は感心してしまう。机上には参考書が置かれ、ノートが開いてあった。勉強していたのだろう。及川は受験生、当然だ。
 三年生は勉強に集中するため文化祭の準備が殆どない。及川のクラスも簡単な展示物のみで、だから帰宅がはやい。羨ましいとは思わない。思えなかった。バレーができない日々とはどんなものだろう。三年生になれば自分も同じ境遇になる。堪えられるだろうか。影山は不安だった。
「及川さんは青葉城西を受けるんですよね」
「うん。近いし強いし、選ばない理由はないデショ。スポーツ推薦が決まれば楽なんだけど」
「及川さんなら一般枠でも余裕だと思いますよ。白鳥沢は受けないんですか?」
「推薦くる気配ないしね。まあ、岩ちゃんも青城行くって言うから俺は青城かな」
「及川さんと岩泉さんって仲良いですよね」
「なになにヤキモチ? 可愛いねトビオちゃん」
 違いますと断言して影山はカバンを置いた。中からノートのようなものを一冊取り出し、カバンの上に脱いだ上着を乗せる。
 及川はベッドに腰掛け、やんわり影山に笑いかけた。
「トビオちゃんも青城においでよ」
「俺は……まだわかんないです。白鳥沢に行けたら行きたいし」
「そうなんだ。ちょっと残念」
 及川はそばに来た影山の腰を引き寄せ、シャツの隙間から背中に手を回した。今までずっとペンを走らせていた及川の指先は冷たい。影山の背筋はピンと張り詰め、かと思えば刺激に堪えきれず曲がった。及川が浮いた背骨をなぞって、シャツをたくし上げる。薄く色づいた乳首に舌を這わせると、影山は手にしたものを握りしめて呻いた。紙がひしゃげる音がする。及川はかたくなった影山の指を一本ずつ丁寧にはがし、冊子を奪った。筋の入った表紙には『ロミオとジュリエット』と印字されている。劇の台本だった。何度かこうして影山が握り潰したのでボロボロだ。
 及川は丸まった台本を伸ばしてページを捲った。影山の練習に付き合っているうちにロミオの台詞はもうすっかり覚えてしまったが、影山がちゃんと台詞を覚えているかチェックしなければいけない。及川は左手で台本を持ち、右手で器用に影山を愛撫した。
「トビオちゃん、いつものところからやって」
「アッ……あ、えっと………」
 右手を額に当てて影山は俯いた。及川を見下ろす双眸は潤み、脳はとろけて思考を放棄しようとする。影山は必死に散らばった言葉を繋げ合わせ、声を振り絞った。
「ロミオ、ロミオ……あなたはどうしてロミオなの……お父様と縁を切って、どうか名前を……捨ててください。それが嫌なら……せめて私を、私を……愛すると誓ってください」
「黙って、もっと聞いていようか。それとも声を掛けたものか。……トビオちゃん、どうしたの? 続けて」
 制服の上からでもわかるほど影山の性器は張り詰めていた。及川はふっと笑みをもらし、影山のベルトを抜き取った。ホックを外してファスナーを下ろす。成長を見込んで購入した大きめのズボンは面白いほど簡単に足を滑り、床に溜まった。影山が僅かにつま先を動かすと濃紺の布がもぞりと動く。そこから伸びた足には白いスポーツソックス。また視線を上げれば灰色のボクサーパンツ。膨らんだ布は濡れ、変色していた。影山は両手を伸ばして恥部を隠そうとしたが、及川は許さなかった。その手でシャツをたくし上げろと命じ、台詞の続きを再度促す。しかし影山はあえかに呼吸するだけで声すら出なかった。
「セリフ忘れちゃった?」
「ちが……っ」
 下着をずり下げると幼い性器が露わになった。影山はシャツを握りしめて歯を食いしばったが、その反応とは裏腹にペニスからはだらしなく蜜があふれ出る。
「えっちな体になっちゃったね、トビオちゃん」
 台詞を覚える練習相手になってくれと影山に頼まれてから約一カ月、及川は台詞を叩き込むのと同時にいろんなことを影山に仕込んだ。
 運動しながら暗記するといいらしいよ。そんな及川の言葉を影山は信じた。もちろん運動がセックスだとは思いもしなかっただろう。影山は色気もなく無邪気に「じゃあバレーでもやりながら」と言って及川を笑わせた。影山の提案をあっさり却下し、及川はあどけない後輩をベッドに連れ込んだ。心だけでなく体を掌握する絶好のタイミングだと思った。
 これまで及川は、上級生から虐げられ同級生からは遠巻きにされる影山を庇い、何かと構ってきた。影山にサーブとブロックを教えたのも及川だった。トスだけが突出した選手ではなく、全てにおいてパーフェクト、オールマイティーな選手に育て、ひとりでも戦えると影山に錯覚させるためだ。その思考は孤独を招く。実際、及川の目論見通りに影山は孤立した。及川以外の三年生はろくに影山の面倒を見なかったし、二年生は理不尽に影山を叱責して邪険に扱った。一年生は見てみぬ振りだ。だが、みんな気付いているのだろうか。生意気と言われる影山が礼儀正しく挨拶すること。天才の称号に甘えることなく誰よりも努力していること。王様と呼ばれ傷ついていること。及川はそれらをすべて知りながら、疎外されていく影山をただ見ていた。もちろん表面上は仲裁しているように振る舞ったし、それによって部内の均衡は保たれていた。しかし三年生、いや及川の引退によってパワーバランスは崩れ、影山はますます周囲との溝を深めた。及川も入部当初は上級生からやっかまれていたが、要領がよい彼は上手く立ち回り、次期キャプテンに任命されるまでになった。及川にあった器用さが影山にはない。影山は愚直なのだ。そしてバレーに対する情熱、勝利への執着が強すぎる。だから周りと噛み合わない。及川は面倒見がいい先輩を装って、影山を孤高の王様に仕立てた。孤独に追い込まれた人間はすこしの優しさで心を開く。おまけに影山は単細胞だ。自分だけが味方だと刷り込むのは簡単だった。及川は野良猫を飼い慣らすように影山を懐柔した。
 何故そんなことをしたのか。理由は単純明快。影山を屈服させるためだ。
 一年生が入部して間もない頃、実力を測るためミニゲームをした。新入部員が及川のサーブを見るのは初めてだった。彼らは凄まじい威力のサーブに驚嘆し、及川を賞賛した。彼らが憧憬の眼差しを及川に向ける中、影山だけが悔しそうに及川を睨んでいた。生意気で、己の力をまっすぐ信じる瞳。小学校を卒業したばかりのガキが一丁前に嫉妬か。及川はおかしくて堪らなかった。徹底的に打ち負かし、プライドを引き裂いてやりたい。その両目を抉ってやりたいとすら思った。しかし残念なことに影山は後輩でチームメイト。本気で叩き潰すことは叶わない。ならば暴力ではなく優しさで掌握すればいい。だから及川は猫撫で声で近付き、影山を手懐けたのだ。ただ影山には意地っ張りな部分がある。可愛いとは思うが、それさえもねじ伏せたいと考えた結果、及川は影山に快楽を与えることにした。それが一番手っ取り早いと思ったからだ。男子中学生なんてバカのひとつ覚えみたいにオナニーばかりしている連中だ。セックスに夢中にならないわけがない。
「トビオちゃん、続き。言えないならお仕置きしちゃうよ?」
 影山の体がぶるっと震える。まるでパブロフの犬だ。台詞の暗唱と同時に繰り返される愛撫、口を閉ざしたときの罰、それらを予期して未熟な体は反応する。
 及川の口元から笑みがこぼれた。ひとりの人間を作り変えていく悦びがこんなにも甘美なものだなんて。
 及川は台本を放り投げて影山を抱き寄せた。シャツを捲っていた影山の手が、おずおずと及川の首に巻きつく。つと影山のうしろを撫でると、連日触っているせいか蕾はやわらかく、及川の指を奥深くまで呑み込んだ。
「まだ中学生なのに俺らって悪い子だね。親に隠れてセックス三昧」
「悪いのは、あっ……及川さん、だろ……」
 影山はベッドに片膝を乗せ、及川の顔を覗き込んだ。
「俺、十二歳ですよ……?」
「そう言われると耳が痛いね。でもトビオちゃん、俺だって十五歳の子供なんだよ。わかる? 好奇心旺盛でサカッてんの」
 左手を黒髪に埋め、及川は影山の顔を引き寄せた。くちびるを押し開いて歯列をなぞる。口蓋を舌先で弄るとくすぐったいのか止められた。その舌をからめ取って吸い上げると、影山の呼吸はますます乱れた。今や窄みには指三本が挿入され、ペニスははちきれんばかりになっている。
「はぁ……あ、及川さん……もう…………」
「イッたら駄目だよ。お仕置きにならないデショ?」
 指を引き抜き、及川は影山の太腿を撫でた。それだけで影山は及川の意図を理解する。
「ほんとアンタは性格が悪い」
 影山はズボンと下着を脱ぎ捨て、及川に跨がった。
「ご褒美が欲しいなら、ちゃんと台詞を言ってごらん」
「んっ……」
 子供っぽいキスを繰り返す合間、影山はたどたどしくジュリエットの台詞を口にした。
 ベッドに倒れ込み、及川はもどかしげに下着ごとズボンをずり下げた。互いのペニスを擦り合わせ、扱く。使われたことがない影山の陰茎に比べ、自身は随分と愛欲に染まっている。セックスに飢えた狼の色だ。たくさんの女の子を食べてきた。雑食だった。けれど最近はそうでもない。この皮膚を摩擦し、色を濃くしているのは、たったひとりの子供だ。
 及川はジュリエットの独白を聞きながら空いた片手でコンドームを探した。枕の下から箱を取り出す。三箱パックを購入した筈だが残り少ない。そんなに使っただろうか。及川は息を弾ませ、コンドームを影山に手渡した。
「つけてくれる?」
 影山の耳が赤くなる。この瞬間どうしても我に返るらしく、いつも反応が初々しい。それを可愛いと思うのは仕方ないことだ。生意気な後輩が照れながらも従順にセックスの準備を手伝ったら、誰だって胸があつくなるし勃起するに違いない。少なくとも自分はそうなのだから、きっとみんなそうだ。
「上手にできたね。でも、ご褒美はちゃんと最後まで言えたらあげる」
 組み敷かれた影山は瞳を羞恥で染め、及川から視線を逸らした。
「その名前を、お捨てになって……ぁ、あなたの名前の代わりに…………」
「代わりに?」
 影山が言葉を詰まらせる。
「トビオちゃん、言って」
「こ、この私の…………私のすべてを、お受け取りになって頂きたいの……」
 この状況で、こんな台詞。恥ずかしさのあまり影山の声は裏返っていた。
「あなたの言うとおりにしましょう。ただ一言、僕を恋人と呼んでくださるのなら」
 影山の耳朶にくちびるを寄せ、囁く。猛ったペニスを差し込むと、影山はきゅっとくちびるを噛んだ。涙をためた黒い瞳はキラキラと輝き、宝石のように美しい。そう――やはり抉ってしまいたいほど。
 及川はおもむろに影山の目を手のひらで覆った。
「及川さん?」
「あなたの瞳を奪ってしまえば、あなたが僕を見ることは二度とない。あなたに見つめられる陶酔を失うくらいなら、僕はあなたの姿を焼きつけた双眸を永遠のものとし、この命ごとあなたに差し出すでしょう」
「そんな台詞ありましたっけ……?」
 及川はやんわり微笑んで手のひらを退かした。負けん気の強い瞳がまっすぐ及川を見つめている。どれほど淫らに瞬いていても誇りだけは失われないのだ。愛しさと憎らしさが及川の心をかき乱した。
「トビオちゃんはバカだから、わからないかもね」
「またそうやって……」
 反論しようとするくちびるを塞いで、及川はゆるく腰を回した。キスの合間にもれる小さな喘ぎが鼓膜をいやらしく刺激する。理性が吹き飛んでいく。あえかに名前を呼ぶと、つられて甘い言葉がこぼれ落ちそうになった。恋人と呼べない関係に、そんなものは必要ないのに。

 がに股のジュリエットが歩いている。金田一と国見は顔を見合わせ、吹き出した。コート上の王様ともあろう者が一体なにをしているのだ。二人は思わず影山を呼び止めた。
 文化祭当日、廊下は人でごった返していた。振り返った影山はキョロキョロと辺りを見渡し、プラカードを持った二人に気付いた。金田一は包帯を巻きつけ、国見はドラキュラの格好をしている。プラカードにはおどろおどろしい文字で「恐怖の館へようそこ」と書かれていた。彼らはクラスの出し物であるお化け屋敷の宣伝をしているのだ。
「イイ格好してるじゃん王様」
「予想以上に似合ってないね」
「お前らも何だよ、その格好。ハロウィンの仮装パーティーか?」
 ドレスで着飾り、ウィッグまで被っているのに、このジュリエットは随分ガサツだ。がに股で歩くし言葉遣いが悪い。数日前は女装を見られたくない様子だったのに、すっかり慣れてしまったのか恥じらいすらない。とにかく可愛げが全然なかった。
 ふと国見が、あっと声を上げて影山の背後に視線を向けた。黄色い声がする。つられて金田一も目をやった。影山は振り返らない。振り返らなくても、騒ぎの原因が誰だかわかる。及川だ。
「トビオちゃーん」
 名前を呼ばれても影山は振り返らなかった。このまま逃げ出したい衝動に駆られていた。肩を掴まれ、既に捕獲されてしまっては無理な話だが。
 金田一と国見が挨拶する。どうやら及川の隣には岩泉がいるようだ。声もするのだから間違いない。影山はすこし安心した。及川にちょっかいを出されて困っている時、止めに入ってくれるのが岩泉なのだ。止めに入ったからといって及川が大人しく引き下がるわけではないが、居ないよりは居た方が心強い。
 影山はそろそろと振り向いて岩泉に挨拶した。肩を掴む力が一層強くなる。痛みに顔を歪め、影山は観念して及川を見上げた。
「及川さん、痛いです」
「トビオちゃんが無視するからいけないんだよ?」
 及川は子供っぽい笑みを浮かべ、パッと両手を離した。それから影山のつま先からてっぺんまで眺め、まじまじと顔を見つめた。
「ちゃんと化粧もしてるんだね。でも、なんだろう……メイクが下手なのかな。あんまり可愛くない」
「悪かったッスね」
 影山はくちびるを尖らせ腕を組んだ。足を広げて立つ姿は悲劇のヒロインではなく完全に仁王像そのものだ。
 膨らんだスカートの上から、及川はつと影山の太腿に触れた。影山がギョッとして目を見開いた。その顔を覗き込むように、及川は影山の肩に顔を乗せた。
「トビオちゃん、あ・し、舞台では開いちゃダメだよ」
「キモッ」
 及川の手を払って影山が飛び退いた。
「これってアレですよ、セクハラハラスメント」
「いや影山、それを言うならセクシャルハラスメントだから」
 岩泉のツッコミに影山が「あ、そうっすね」と頷く。
 金田一と国見は唖然とした。及川が影山にちょっかいを出すのは日常茶飯事なので慣れているが、及川の物言いと表情から見てはいけないものを見てしまった気がする。
「ったく……もう行くんで失礼します」
 影山はスカートをふん掴み、岩泉に頭を下げた。廊下を勇ましく歩きはじめたジュリエットの背中に、ふと及川が呼びかける。先輩を敬うよう指導されてきた体育会系の影山は、止せばいいのにと思いつつ律儀に振り返ってしまう。
「なんですか」
「台詞、忘れないでねトビオちゃん」
 及川がにっこり手を振ると、影山は耳まで真っ赤にしてドレスを翻した。上履きで廊下を蹴って駆けていく。ジュリエットはあっという間に消えてしまった。
 先輩から後輩へのセクハラ紛いのスキシップを見てしまった金田一と国見もそそくさと退散。取り残された岩泉は思わずため息を吐いた。
「お前ああいうの止めろよな。後輩ドン引きだぞ、ドン引き」
「別にあれくらい普通デショ。岩ちゃんにもやってあげようか?」
「やらんでいい」
 言い捨て、岩泉は歩き出した。
 すれ違う女子がきゃあきゃあ騒いでいるが、彼女達が見ているのは及川であって自分ではない。まったく嫌みな野郎だと内心毒づきながら、岩泉は歩調をゆるめた。となりに並んだ及川は性格の悪さを上手に隠し、黄色い声援に笑顔で応えている。岩泉はやれやれと肩を竦めた。
 その横を通り過ぎていく女子のくちびるから、不意に「ジュリエット」という単語がこぼれ落ちた。耳聡い及川の視線が女子の背中を追う。彼女の足は体育館へと向かっていた。
「……お前は行かなくていいのか。練習付き合ってたんだから気になんだろ」
「気になるけどいいや。勃起しそうだし」
「ぼっ…………」
 岩泉は慌てて口を真一文字に結んだ。及川の冗談に付き合うのはほとほと疲れるし、真に受ける方がバカらしい。反応したら負けだ。だが及川は無反応の岩泉に構うことなく喋り続けた。
「観たら絶対練習のこと思い出すもん。飛雄もヤバいかな。あ、でもスカートだから大丈夫か。勃起してもバレないよね。どう思う? 岩ちゃん」
「…………」
「岩ちゃんってば」
「うっせえな黙れ! っつーかクソ及川てめぇ練習って何だよナニしてんだ後輩にッ」
「え? なにって……」
 答えるため開かれた及川の口を「だから黙れ」と岩泉が封じる。目を瞬かせ、及川は岩泉の手のひらを舐めた。
「しょっぱい」
「知るかボケ」
 岩泉の拳を避けつつ、及川はすれ違う女子にヘラヘラと手を振った。なんでこんな奴がモテるのだろうか。世の中は不公平だ。理不尽だ。岩泉は渾身の力を込めて親友を蹴った。痛いと抗議する声を無視して歩く。はやく及川が「冗談だよ岩ちゃん何マジになってんの」と腹立たしい声で言うのを待った。たちの悪い冗談は止めろと叱ってやるつもりだった。ところが物憂げに目を伏せて吐息をもらす姿は、思春期真っ盛りの青少年というよりは恋する乙女で、及川からいつもの軽薄さは微塵も感じられなかったし、とてもふざけているようには見えなかった。
「お前と影山って、その……付き合ってんの?」
「まさか」
 及川は即答した。
「俺アイツのこと嫌いだもん」
「はあ?」
「だって天才とかむかつくじゃん。知ってる? 飛雄にサーブとブロック教えたの俺だって思われてるけど、アイツはただ単に見てただけなんだよ。見て覚えればって意地悪で言ったのに、それで本当に覚えるとか有り得ないよね。さすが天才っていうの? 飛雄は飛雄で、覚えられたのは俺が見せてくれたおかげだって感謝してくるしサ。まあ、結果的に飛雄が孤立してザマーミロって感じかな」
「影山のこと気に入ってたんじゃねえのかよ」
「気に入ってるよ。だから困ってんデショ」
 及川は制服のポケットに手を突っ込んで壁にもたれた。体育館での催しが始まった頃だろうか。人混みは落ち着き、喧騒は穏やかなものに変わっている。及川は壁に寄りかかったままずり下がり、廊下に座り込んだ。
「頭ン中ぐちゃぐちゃだよ。飛雄のこと本当むかつくし大嫌いなのに、俺以外の奴がアイツに構うのは面白くないんだ。みんな飛雄のことなんて嫌いになればいいのに。岩ちゃんもあんまりアイツに優しくしないでよ」
 岩泉は及川の脛をつま先で小突いた。
「クソ及川そりゃあアレだ、独占欲って奴だろ。嫌いじゃなくて好きなんだよ」
「……わかってる」
「わかってんのか」
「そうじゃなきゃ男となんてやらないよ」
 マジやってんのかよ。つぶやいた岩泉を見上げ、及川はドン引きした? と首を傾げる。岩泉は髪をかき乱し、大袈裟にため息を吐いて勢いよくしゃがみ込んだ。
「俺がどうこう言える問題じゃねえだろ。っつーか付き合ってないのにやるってのが俺には理解できないけどな」
「岩ちゃん純情だね」
「俺は健全なんだよ」
 親友の思いがけない告白に動揺しているし、十二歳の後輩に手を出すのは賛成できない。本当は言いたいことがたくさんある。聞きたいことだって山ほどある。けれど黙って受け入れてやるのが親友だろう。及川が複雑な想いを抱いているなら尚更だ。
「今から観に行くか? ジュリエット」
「勃起するかもよ」
「したらトイレ行け」
 岩泉は立ち上がって及川を促した。
 走れ、ジュリエットが待っている。