あつい日射しのなか漂っていた意識がゆっくり浮上する。目を開けると、涼やかな風がふんわり頬を撫でていた。健二は風の在処を確かめようと目線で探り、ふと優しい眼差しにぶつかって飛び上がりそうになった。
「なっ、夏希先輩……」
「大丈夫?」
 うちわを扇ぎながら夏希は健二の顔を覗き込んだ。艶やかな黒髪に飾られた朝顔から微かな芳香が放たれている。健二はあまりの近距離に慌てふためきながら体を起こした。
 その動揺っぷりがおかしいのか夏希はころころ声を上げて笑う。
「落ち着いて、健二くん」
「いや、その……もう大丈夫なんで! 夏希先輩は皆さんのところへ行ってください」
「でも心配だし……あ、のど渇いたんじゃない? お水持ってこようか」
「いやいやいや! 本当に大丈夫なんで自分で行きます」
 健二は叫ぶなり、その場から逃げるように立ち去った。
 廊下を曲がったところで歩調をゆるめ、密やかにため息を吐く。倒れる寸前の記憶を再生して健二は思わず赤面した。鼻先に触れてみる。もう血の気配はなかった。誰かがきれいに拭ってくれたのだろう。キスされて倒れるなんて情けない。恥ずかしくて夏希の顔が見られないし、陣内のみんなと顔を合わせるのも忍びなかった。このまま逃げ帰りたいくらいだ。
 台所に近づいた健二はひとまず様子を窺った。できれば誰とも顔を合わせたくないのだが人の気配がする。そろりと中を覗いてみれば、そこには佳主馬がいた。冷凍庫を覗くかたわら開襟シャツをはためかせ、胸元に風を送っている。相手が親近感を抱いている佳主馬だと知り、健二は安心して足を踏み入れた。
 陣内のみんなと話すのは楽しいし、もちろん夏希と話せるのは嬉しいけれど、一緒にいて落ち着くのは佳主馬だ。一番はじめにパニックに陥っている姿を見られたせいか、わりと素に近いまま接することができる。
「なにしてるの?」
 佳主馬は健二を一瞥し、「アイス食べたくて」と答えた。どうやら目当てのアイスを探っているようだ。
「おにいさんも食べる?」
 冷凍庫に視線を落としたまま佳主馬は訊いた。
 健二は頷いて冷凍庫を覗き込む。アイスクリームにアイスキャンディー、シャーベット。商店並みの品揃えだ。夏休みに集まる子供たちのため買い溜めしておいたのだろう。たくさんあって目移りする。
 逡巡している健二を横目に佳主馬は奥の方からピンクの氷菓子を取り出した。プラスチック製の容器に詰まったジュースを凍らせたものだ。真ん中がくびれているので二つに割って食べることができる画期的な棒ジュースだ。
 健二も幼少時の夏、よく食べていた思い出がある。
「懐かしいなあ」
 手を伸ばそうとする健二に向かって、これが最後の一本だと佳主馬は言った。
 健二は落胆し、改めて冷凍庫に視線を落とした。食べたいものはもうない。そう思うとどれも同じように見えてくる。ならば一番上にあるアイスでいいやと思った瞬間、だしぬけに佳主馬が冷凍庫を閉めた。あわや手を挟むところだ。
 健二が驚きの表情を浮かべて佳主馬を見ると、佳主馬は手にしたアイスを膝で折った。見事真っ二つに割れている。
 自分は手で折っていたけれど、足を使うのは佳主馬らしいと健二は思った。
「どっちがいい?」
 一つから二つになったアイスを突きだし、佳主馬は尋ねた。
 思いがけない言葉に驚きつつ健二が「こっち」と先っぽのある方を指差すと、佳主馬はそれを健二に手渡して自分の手元に残ったアイスを舐めた。
「ありがとう佳主馬くん。いただきます」
 ひさしぶりに味わう氷菓子の食感。舌先で氷がじんわりと溶けていく。
「いちご味、だよね。好きなの?」
「いちご?」
「うん」
「好きだよ」
 答え、佳主馬はピンクの氷を噛み砕いた。
 それから健二を……というより健二が持っているアイスをジッと見つめながら、
「そっち食べるの面倒じゃない?」
「面倒?」
「先っぽの部分って食べる頃には溶けてるし、溶けてなかったとしてもすんなり食べられないし、翔太兄は量が多いから得だろって言うんだけど微妙な差だし、それに甘いだけの液体なんて飲みたくないし、なんであるのか不思議なんだよね」
「そんなの考えたこともなかった」
 健二はおかしそうに笑う。
「ここのみんなは先っぽある派ない派にわかれてるんだよ。ある派のほうが多いからケンカになるんだ」
「なるほど」
 その様子は容易に想像できる。
「おにいさんも量が多いからそっちがいいの?」
「いや、ほら……ここ持つと冷たくないから」
「冷たいのが気持ちいいのに」
「指が冷えちゃわない?」
「冷えるけど交代で持てばいいじゃん」
 右手から左手にアイスを持ち替え、佳主馬は肩をすくめた。
「そうだね。あ、でも」
「なに?」
「僕たちはケンカしないでわけられるから問題ないよ」
 佳主馬は呆気にとられた様子で健二を見つめた。
「おにいさんって、へん」
「えっ、あ……あれ? なんか変なこと言った?」
「うん」
「ええ? 言ったかな……」
 首を傾げる健二の横で、佳主馬はへこんだ容器を膨らませ上を向いた。残りの氷がゆるやかに佳主馬の口へと運ばれていく。
 健二がそれに倣おうと構えた矢先、賑やかな声を響かせて理香と直美がやってきた。
「あら、もう具合はいいの?」
 健二の顔を見るなり直美が訊いた。
「あ、はい……」
 たちまち健二の顔が赤くなる。ビールを取り出していた理香が「もう鼻血は勘弁してよ」と笑った。
「……ねえ、それって最後の一本じゃなかった?」
 直美が不思議そうに健二と佳主馬を見比べる。つられて理香も二人を見つめた。
 健二は不思議に思われていることが不思議でならず、おずおずと口を開く。
「佳主馬くんとはんぶんこしたんです」
「佳主馬と?」
 理香と直美は声をハモらせ、顔を見合わせた。
「珍しいこともあるもんだわ」
 なにが珍しいのだろう。健二の疑問を察したのか、直美が腕を組んで「佳主馬はね」と切りだした。
「絶対はんぶんこしない子なんだから」
「え……」
「一口ちょうだいって言っても、やだの一点張りなのよ。父さんにはあげるくせに」
「だって師匠だもん」
 それまで黙っていた佳主馬がしれっと答えた。
「はいはい。あんたは本当におじいちゃんっ子よね」
「佳主馬も成長したってことじゃないの? もうすぐおにいちゃんになるわけだし」
 理香は笑っているが、直美は納得できない様子だ。
「佳主馬、私にも一口ちょうだい」
「やだ」
「なによ、ちっとも成長してないじゃない」
「直美おばさんに言われたくないよ」
「ちょっと! 直美さんでしょ、直美さん。おばさん禁止」
 直美は瓶ビールを引っ掴んで足早に台所から立ち去った。
 やれやれと理香は苦笑いを浮かべる。
「たまにはかわいい甥っ子を演じてあげなさいよ」
 そう言い残して理香は直美のあとを追いかけた。
 台所には静けさが戻る。遠くではさざ波のような笑い声。そよと吹きこむ風が健二の頬をくすぐる。なんとなく心までこそばゆい。
「なに笑ってるの」
 からっぽの容器をゴミ箱に投げ入れ、佳主馬は怪訝そうに健二を見上げた。
「いや、同じだなって」
「なにが?」
「はんぶんこしたくないって気持ち」
 ピンクの氷は溶けかけ、握ると簡単に散らばった。甘みがしみて一番おいしい頃合いだ。
「ひとりっ子だと全部自分のものだから、はんぶんことか物の貸し借りって好きじゃないんだ。苦手っていうか。でも、きょうだいが出来たらそうも言ってられないよね。突然おにいちゃんになるんだから我慢してねって言われても、僕なら戸惑っちゃうなあ。佳主馬くんはえらいね」
 へらっと健二が笑う。
 空気の抜けた風船みたいだと思いながら佳主馬は首筋に手を当てた。冷たくなった指先を熱のこもった髪の中に埋め、
「そんなんじゃないよ」とくちびるを尖らせた。何故そんなこともわからないのだと健二を責めているようだ。
 健二は咄嗟に謝ろうとしたが、それを佳主馬が阻んだ。
「健二さんはヒーローだから」
「……え?」
「ぼくのヒーローだから、いいんだ」
 佳主馬の双眸に映っている自分の姿はひどく頼りなげで、とてもヒーローには見えない。ヒーローは自分などではなく佳主馬だと言おうとした健二だが、違和感に気づいて口元を手で覆った。
「…………あれ?」
「どうしたの」
「佳主馬くん、僕の名前……」
「呼んだけど。……なに、ダメだった?」
「ううん! ダメじゃないよ、全然。ダメじゃないです」
 こみあげる笑いを抑えきれず健二は破顔した。
「佳主馬くんは変わってるね。僕がヒーローだなんて」
「みんな言ってるよ」
「でも、僕にとってヒーローは佳主馬くんだよ。あの一撃がなければ、きっと負けてた」
「健二さんが最後まで諦めなかったからだよ」
「だけど、やっぱり佳主馬くんがヒーローだよ」
 健二は目を瞬かせ、満面の笑みを浮かべた。
 佳主馬はそんなことないと反論しようかと思ったが、だんだん照れ臭くなってそっぽを向いた。それでも自分の主張は曲げたくない。
 健二が先端に詰まった甘いジュースを飲み干すのを見届けてから佳主馬は言った。
「じゃあ、ぼくたちがヒーロー。……それでいい?」
 佳主馬は健二を見上げ、にっと笑う。
「はんぶんこだよ」
「うん。はんぶんこも悪くないねえ」
 健二はのんびり答え、声をあげて笑った。