「もうすぐお兄ちゃんになるんだからねえ」
 最近、くちを開けば母はこればかり。
 佳主馬は「わかってるよ」とくちびるを尖らせ、母の大きくなったお腹を見つめた。
 母は佳主馬の小さな爪をパチ、パチ、と順々に切り揃えている。明日から長野なので身だしなみを整えているのだ。前髪も切りなさいと言われたが断固拒否した。前髪がないと落ち着かない。
 十三年間ひとりっ子として育てられた佳主馬は、これまで随分甘やかされてきた。爪切りも耳かきも今まで母にしてもらっていたし、それが当然だと思っていた。ところが第二子を身ごもったことにより、母は突然「お兄ちゃんになるんだから」と佳主馬に自立を促し始めたのだ。もちろん佳主馬は基本ひとりでなんでもできる。本当は爪だって自分で切ることができるのだ。それでも爪切りを持てば母は「おいで」と手招きしてくれたし、佳主馬はそれが嬉しくて、やわらかな母の手のひらに自分の指先を委ねてきた。それなのに、妹が生まれたらこうして爪を切ってもらうこともなくなってしまう。
 自分は「佳主馬」から「お兄ちゃん」になるのだ。悲しくはない。でも、すこし寂しかった。

 長野の涼やかな風に吹かれながら、佳主馬は縁側でパチ、パチ、と慣れない手つきで爪を切っていた。
 佳主馬は爪の伸びがはやい。キーボードを叩かないのであれば多少伸びていようと構わないけれど、カズマを操るのに支障が出るからまめに切るようにしているのだ。爪というのは厄介なもので、気をつけて切らないと巻き爪になるし、切りすぎると力が入らなくなる。しかも爪切りはチマチマした作業でイライラする。
「――あっ」
 注意力が散漫していたせいかうっかり爪を切りすぎてしまった。じんわり血が滲む。ため息を吐いて佳主馬は爪切りを放り投げた。残るは左手の薬指と小指。けれど、もう切る力がない。
「佳主馬くーん」
 呼ばれ、佳主馬はゆっくり振り向いた。
 健二が大きな皿を持ち上げ、スイカ持ってきたよと満面の笑みを浮かべている。彼は居間のテーブルに皿を置いて佳主馬のもとへ歩み寄った。
「爪切ってるの?」
「うん」
「もう切り終わった?」
 床に置かれた爪切りと佳主馬を見比べ、健二は首を傾げた。
「まだ、だけど……」
 佳主馬はガタガタでみっともない爪を見られないよう注意深く隠した。十三歳にもなって上手に爪を切れないなんて、情けないし格好わるい。健二には知られたくなかった。
 歯切れの悪い佳主馬の答えに、健二はしゃがんで佳主馬と目線を合わせた。
 健二は自分と同じひとりっ子なのに兄のような振る舞いを見せる。本人は無自覚だろうし、兄のような振る舞いというものは、きっと彼の優しさなのだと佳主馬は思う。
「面倒になっちゃった?」
 爪切りを手にして健二が笑った。
 それも正解。けれど佳主馬は答えず、ぎゅっと手のひらを握りしめた。やっぱり力が入らない。だらりと腕を垂らし、指先を広げて何度目かのため息を吐く。
 途端に健二が悲鳴をあげた。
「佳主馬くん、血がっ」
「うん。切りすぎたみたい」
「はやく消毒しないと。待ってて!」
 当の佳主馬よりも慌てた様子で健二は駆けて行った。ぼんやりしているかと思えば騒がしい人だ。
「こんなの舐めてれば治るのに」
 健二の背中を見送って、佳主馬は血の滲んだ指を舐めた。
 やがて消毒液と脱脂綿を持って戻ってきた健二は、佳主馬の指先を消毒した。
 大人しく手当てを受けていた佳主馬は、ふと健二の指先を見つめて言った。
「健二さんの爪ってきれいだね」
「そう?」
「うん。きれい」
 褒められて恥ずかしいのか、健二は口元をゆるめた。
「自分で切ってるの?」
「えっ、そうだよ」
 面食らったように健二は答え、それから「もう十七だしね」と付け加えた。
 仕事で忙しい両親を持った健二は幼少から自立を意識し、両親が健二のため何かしようとするのを「ひとりでできるよ」とやんわり断り続け、今に至る。だから彼は卒園する頃には自分で爪を切ることを覚えていた。
 健二の爪は短すぎず長すぎず丁度いい。キーボードも叩きやすいだろうし、携帯だって弄りやすいだろう。何よりそれはペンを握るのに最適な形をしていた。
「爪はね、切りすぎたら駄目なんだよ。ばい菌が入っちゃうからね」
「どこまで切ればいいかわからないし」
「これは切りすぎだよ。白い部分も残さないと」
 白とピンクの境目を目安に切っていたけれど叱られてしまった。
「まだ切ってないところがあるね」
 そう言うなり健二は脱脂綿の代わりに爪切りを手にした。しかし佳主馬の手を取りつつも動かない。やがて何事か思いついた健二はすっくと立ち上がった。
「ちょっと失礼します」
 健二は背後から佳主馬を抱きしめるように座った。突飛な行動にさすがの佳主馬もまごつく。
「ちょっと健二さん、何これ」
「人の爪なんて切ったことないから、自分のを切るみたいにしないと自信ないっていうか……」
 健二は佳主馬の背中に胸をくっ付け、改めて佳主馬の手を取った。
「ごめんね。あつい?」
「……平気」
「重たくない?」
「大丈夫だってば」
「本当に?」
 気遣わしげな健二の声がすぐ耳のそばで響く。佳主馬はくすぐったくて堪らなかった。
 健二は消毒するときよりも丁寧に佳主馬の指先を扱った。キングカズマを操る指先に敬意を払っているのかもしれないと佳主馬は思う。自分だって、懸命にペンを握りしめ世界を救った健二の指先には敬意を払っているし、それは何も指先だけには止まらないけれど。
 左手の薬指と小指の爪だけが健二の爪と同じくきれいに切り揃えられていく。健二は緊張しているのか、手がすこし汗ばんでいた。
「健二さんは良妻賢母になるね」
「ええ?」
 健二が笑うと震動が佳主馬にまで伝わってくる。本当に、くすぐったい。