朝顔の季節だった。
 広間では大人たちが難しい顔で話をしている。子供たちは庭を眺めていた。視線の先には一人の少年。彼は今日から家族になる。
 祖父は「みんなで遊びなさい」と子供たちに呼び掛けたが、誰も親のそばから離れようとはしなかった。親が少年のことを快く思ってないと察したからだ。子供は敏感なもので、親の顔色を窺うのが得意なのである。事情を理解している年長者はとりわけ居心地悪そうに座していた。ただ一人、理一を除いては。
 万理子は誰より激昂していたし、少年を白眼視していた。だから理香は、万理子に引っ付いたまま「やめなさいよ」と理一を制した。しかし重苦しい空気に嫌気を起こしていた理一は、広間を黙って脱け出した。ずっと正座をしていたので足が痺れている。痛いような、こそばゆいような、妙な感覚のまま歩く。理一には大人たちが何故あんなにも難しい顔をするのか理解できなかった。大家族に一人加わったところで何が変わるでもない。お米なら山ほどあるし部屋だって有り余っている。困ることなど全くない。母は一体何に腹を立てているのだろうか。
 少年は広間に背を向け、水中をジッと覗き込んでいた。庭の池は射るような光を反射して輝いている。少年の暗い瞳にも、光の粒がキラキラと映り込んでいた。
 理一は池を取り囲んでいる岩に腰掛け、水辺の少年を見つめた。どことなく祖母に似ている。血の繋がりは一切ないのに不思議だ。
 少年は理一の叔父にあたようなので、やはり「おじさん」と呼ぶべきだろうか。同い年からおじさん呼ばわりされるのは良い気がしないだろう。怒るだろうか。想像すると面白い。試しに呼んでやろう。けれど、理一の呼び掛けに少年は無反応だった。
 少年の顔を覗き込むように理一は身を屈めた。
「きみ、めかけの子なんだって?」
「…………」
「わびすけって、へんな名前」
 それでも平たい瞳は水面を見つめるばかり。どうにかして少年を振り向かせたい。そんな理一の思いはついに届かなかった。

 その日、陣内家の温度計は今年一番の暑さを示していた。クーラーはおろか扇風機すらない陣内家では、時折吹く涼やかな風だけが気を紛らわせてくれる。
 終業式を終え、寄り道をすることもなく帰宅した理一は誰もいない縁側でごろ寝していた。誰に邪魔されることなく昼寝をできるのはいい。冷やりとした床に頬を当て、目を閉じる。屋敷には誰かしら在宅していることが常なのだが、今日は珍しく理一しかいない。一人の時間は貴重だ。呼吸が規則的になり、睡魔に襲われる。

 ガラガラ、ピシャン!

 現実と夢の狭間にいた理一は、唐突な喧騒に飛び起きた。
 この、わざとらしい粗野な足音――侘助だ。緩慢な動作をするくせに足音だけは自己主張が激しい。
 理一は長身を丸め、侘助の足音に耳を傾けた。侘助は大抵、家族を避けて自室か納戸に引き籠っている。しかし家にいるのが理一だけの場合は勝手気ままにうろついていた。何故だかは知らない。ただ、自分だけは「許されている」という実感が理一を満たした。玄関に並べられた靴を見て、侘助は家にいるのが理一だけと気付いたはずだ。縁側に人の気配を察し、きっと侘助はやって来る。
 そうして理一の予想通り、やがて縁側が軋んだ。
「おまえも食うか」
 挨拶もなく、侘助は冷たいものを理一の頬に押しつけた。アイスキャンディーだ。
「……おかえり」
「うん」
 頷き、侘助は水色のアイスキャンディーを頬張った。
 理一は未だに侘助が「ただいま」と言っているのを聞いたことがない。気持ちはわからなくもないが、本家に来てから何年も経つ。意固地にならず言えばいいのにと思いながら、理一はアイスキャンディーの袋を破る。あずき味だった。
「起きて食えよ。行儀悪いな」
 腹這いになってアイスキャンディーを舐める理一を跨ぎ、侘助は縁に腰掛けた。片膝を立て、左足をぶらりと垂らす。行儀が悪いのはお互い様だ。
「成績どうだった? 学年首位殿」
 理一の問いに侘助は「いつも通り」と答えた。なるほど。いつも通り、最高ランクの数字が羅列された通知表を携えてきた訳だ。
「将来有望だな」
「おまえこそ」
 広間の卓上を一瞥して侘助のくちびるが三日月を描く。万理子に見せろと言われたとき自室へ取りに行くのが面倒なので、わざと目につくところに置いていたものを見られたらしい。侘助と違って得手、不得手が明白な通知表だが、そもそも進学校と公立校では数字が示しているレベルが違うのだから、比べるのは無意味だろうと理一は思う。
 アイスキャンディーを食べ終えた侘助は、ずいっと棒を突き出した。理一は黙って「はずれ」と刻印された棒を受け取る。長年このアイスキャンディーを食べているが、ついぞ『あたり』の文字を見たことがない。くちに含んでいたものを取り出し、理一は濡れた棒を見つめた。やはり「はずれ」だ。
「あー……クソ暑い。日本の暑さは凶器だな」
 侘助は開襟シャツの襟を引っ掴んでバタバタと仰いだ。
「おまえ詩人にでもなれば」
「はあ?」
 くつくつと笑う理一を侘助は訝しそうに眺める。
「なんで笑うんだよ」
「日本の暑さは凶器って」
「ふん、おまえもいつか殺されるぜ」
「お生憎様、おれは暑さに強いんでね」
 濡れた棒をべたついた袋に突っ込み、そのまま床に置いた。綺麗好きの万理子が見たら眉を吊り上げそうな光景だ。
「理一」
 侘助の間延びし発音は、麻雀で発声される言葉のようだった。ひどく投げやりな呼び方だけれど、不明瞭に発音される自分の名前を聞くのは嫌いじゃない。
「なに?」
「進路どうするか決めたか」
 二人の視線が交差する。
 理一は侘助から目を逸らし、腕枕に顔を埋めた。いつか話そうと思っていた。ひとつ屋根の下で暮らしているのだから、いずれは知られてしまう。けれど、まだ心の準備ができていない。
「おい、無視するなって」
 背中に体重を掛けられ理一は呻いた。侘助は子供っぽい。自分は好きなだけ無視するくせに、自分が無視されるのは許せないのだ。
「……引っ付くなよ」
「なあ、教えろって。どこの大学?」
「…………」
「もしかして就職か」
「違うけど」
 理一は首を捻り、庭を眺めた。理香でも万理子でも、誰でもいいから帰ってくればいいのに。そうしたら侘助は背中から退いて納戸へと引き籠る。受験の話など忘れるだろう。しかし炎天下の庭はひっそり呼吸するばかり。
 侘助は反応のない理一の首根っこを掴み、耳元に息を吹きかけた。くすぐったい。理一は観念して恨めしそうに侘助を見上げた。
「吐く気になったか」
 首元に置かれた手のひらを引っぺがし、理一は煩わしそうにくちびるを動かした。
「おまえが言ったらな」
「おれは働きたくないから進学する」
「どこに行くつもりだ」
「どこって……別に、どこでもいい」
 予想していた答えに理一はため息を吐いた。
「おまえなら東大にだって行けるよ」
「興味ない」
「才能を無駄にするな」
「うるさいな。おまえはおれのおふくろか? 説教はいいから、どうするのか教えろ」
 見つめ合うこと数秒。理一は小さく「防衛大に行く」と答えた。
 侘助の顔が歪なものに変わる。怒っているのか笑っているのか、理一には判断できない。
 おもむろに理一の背中から離れた侘助は、ふっと笑みを浮かべて手のひらを髪に埋めた。
「おまえ自衛官になるの」
「そうなるだろうな」
「場所は」
「横須賀」
「じゃあ、なに……ここを出るのかよ」
「そうだ」
 答えた瞬間、胸ぐらを掴まれた。
「……放せよ」
「おれを置いて行くのか」
「侘助、痛いって」
「おれを一人にするのかよ」
 妙な体勢で吊られ、理一は痛みに顔をしかめた。ひ弱そうに見えて存外力がある。それでも自分には敵わない。理一は侘助の手を容赦なく振り払って体を起こした。
「女みたいにわめくなよ」
 侘助の顔にサッと赤みが差す。同時に、理一の頬に激痛が走った。
「おまえが……、おまえが女みたいにおれを抱いたんだろッ」
 アイスキャンディーの袋を踏んで侘助は立ち去った。甘ったるい飛沫が床を汚す。
 見たか。あの、怒りと羞恥に満ちた顔。こんな時でさえ劣情を催す自分はどうかしている。だが、侘助が感情を乱し、それが自分に向けられることにどうしようもない愉悦を覚えてしまう。
 愛でも恋でもない。ただ欲しい。欲しいのだ。理一の名前を不明瞭に発するくちびる。器用な指先。頼りない腕。行儀の悪い足。癖のある髪の毛。だらしない胸元。丸めた背中。健やかな首筋。全部、自分のものにしたい。
 一度、たった一度だけでも触れたら満たされると思った。拒絶されれば諦められると思った。だから、酔ったふりしてキスをした。舌をからめてきたのは侘助からで、腕を伸ばして抱き寄せたのは自分だった。あとは成り行き任せでズルズルと。半年前の出来事だ。二人とも正気じゃなかった。
 侘助に触れられたところが熱い。暑い。日本の暑さは凶器だ。あつい。
 手のひらにじっとり滲んだ汗を拭い、理一は世界から目を逸らした。

 その晩、侘助は納戸に引き籠ったきり夕飯も食べなかった。
 理一はノドの渇きを理由に台所を覗き、そこに栄がいることに驚いた。夜中だというのに割烹着を着ている。
「ばあちゃん、何してるの」
「侘助に夜食をね、作ってあげてるんだよ」
 栄は今しがた握ったおにぎりを理一に差し出し、にかっと笑った。
「あんたも食べな。育ち盛りだからお腹がすいたろう?」
「ありがとう」
 万理子が台所を取り仕切るようになってから、栄が料理することは少なくなった。栄が握ったおにぎりを食べるのも久しぶりだ。絶妙の塩加減とパリッとした海苔の食感が堪らない。
「美味い」
「そうかい。良かった」
 満足げに頷いた栄は、続いて残りものの味噌汁を温め直し始めた。その間、丸盆に皿を並べてコップに麦茶を注ぐ。
 おにぎりを食べ終えた理一はこのまま立ち去ってしまおうかと思いながらも躊躇いがちにくちを開いた。
「おれ持って行こうか」
「そうしてくれると助かるよ」
 理一は頷き、米粒で汚れた手を洗おうと流しに移動した。蛇口を捻れば冷水が流れ出る。どんなに暑くても水だけは冷たいのだから有難い。
「あの子ね、東大に行くと言っていたよ」
「侘助が?」
「どういう風の吹き回しだろうね」
 水を止め、理一は振り返った。栄は笑っているが寂しそうでもある。
「理一」
「なに?」
「あの子がウチの子になった日、子供たちはみんな遠くからあの子を見ているだけだった。あんた以外は」
「……うん」
「あの子、それが余程嬉しかったんだね。真っ先にあんたの名前を覚えたんだよ」
 それは初耳だ。
 しかし、わざと怒らせるようなことばかり言っていたのだから、侘助が自分の名前を覚えたのは喜びではなく怒りからだったのではないかと理一は思う。
「あんたたちは兄弟みたいなもんだ。東京と神奈川は近い。互いに助け合って暮らしていくんだよ」
「……うん」
 栄はコンロの火を止め、味噌汁をお椀によそった。
「それにしても楽しみだね。あんたは自衛官。あの子は……あんたの力になるものを開発する、えらい学者になるかもしれないよ。あんたたちがいなくなったら、この家も静かになるね」
「ばあちゃん、ごめん。おれ……」
「どうして謝るんだ。おかしな子だね」
 理一は言葉に詰まり、立ち尽くした。逃げることばかり考えていた自分が恥ずかしくなる。何より栄の信頼を裏切っているのだという後ろめたさが理一を苦しめた。栄にだけは、侘助に抱いている浅ましい感情を知られたくない。
 黙りこくった理一をしげしげと眺め、栄はやんわり微笑んだ。
「さあ、理一。頼んだよ」
 両手に載せられた重みを感じながら、理一は静かに頷いた。

 廊下は昼間の暑さが嘘のように涼やかだった。月明かりに照らされた庭石が鈍い光を放っている。
 理香はラジオを聞いているらしく、微かな灯りと流行りの音楽が部屋から漏れていた。規則正しい生活を送っている理香も、夏休みは夜更かしするようになるのだ。
 理一は片手で盆を持ち、納戸の引き戸を遠慮がちに叩いた。
「侘助、おれだ。……開けるぞ」
 返事はないが、理一はそろりと戸を引いた。
 不要になった物たちに囲まれた部屋はどこよりも静かで冷ややかだ。屋敷のどこにも属さない空間。隔離された場所。その中心に侘助はいた。タオルケットに包まりながら、月明かりと懐中電灯だけを頼りに本を読んでいる。寒がりの侘助にとって上田の夜は夏でも防寒が必要らしい。昼間は暑い暑いと騒いでいたくせに忙しい奴だ。
 理一はテーブルに盆を置き、侘助の手からつと本を奪い取った。
「おい、なんだよ。返せって」
「目が悪くなるから暗いところで本を読むな」
「おまえには関係ない」
「子供じゃあるまいし、いつまで拗ねてるつもりだ」
「人を女だとか子供だとか馬鹿にするのもいい加減にしろ」
「馬鹿にした覚えはない。いいから、飯。……食えよ」
 侘助は差し出された盆を訝しげに眺めていたが、一向に手を伸ばそうとしない。理一はやれやれとため息を吐く。
「ばあちゃんがおまえにって。食わなきゃバチ当たるぞ」
 侘助はしばらく胡乱な眼差しを向けていたが、やがてもぞもぞとタオルケットから這い出し、「いただきます」と両手を合わせた。おにぎりを食べ、味噌汁を味わい、最後は麦茶を一気に飲む。余程空腹だったのだろう。無駄口を一切叩かず、侘助は栄の作った夜食を平らげた。そして再び「ごちそうさま」と両手を合わせ、侘助は疎ましげに理一を睨んだ。
「なんで出て行かないんだよ」
「それ、持って行こうと思って」
 空になった皿を指差され、侘助は決まり悪そうに頭を掻いた。
「いいよ。自分で持って行くから」
「そんなこと言って、おまえ不精だから絶対置きっぱなしにするだろ」
 ふっと目を細めて理一は笑う。
 手持無沙汰になった侘助は懐中電灯を手にしてカチ、カチ、カチとスイッチを弄った。短く三回、長く三回、また短く三回、点灯させる。
「SOS、救助されたし」
「さすが未来の将校殿。ご立派なことで」
 侘助は嫌味ったらしく拍手し、肩を竦めた。昼間の怒りがまだ治まらないようだ。理一は思わず弁解しようとくちを開いたが、すぐ言葉に詰まった。
「侘助、おれ……」
「…………」
「おれは……」
 栄の笑顔が脳裏を過る。万理子、理香、それから親戚。自分の思いを侘助に打ち明け、それを彼らに知られたらどうなる。彼らは自分に失望するに違いない。そして、きっと意味もなく侘助を責めるのだ。果たして自分はそれに耐えられるのか。無理だ。今の自分では侘助を突き放して逃げ出すことしかできない。
 俯いた視線の先で、光を失った懐中電灯が床に転がっている。不意に侘助の乾いた指先が理一の頬に触れた。
「理一、おまえの考えていることくらいわかる」
「…………」
「わかってるよ」
 薄いくちびるが重なった。二人とも正気を保ったままだ。あの晩とは、ちがう。
「駄目だ、侘助……」
「いいから黙れよ」
 理一の抵抗は吐息に紛れ、溶けていく。舌先が熱を求めてさ迷うのを止められない。理一は堪らず侘助の頭を抱え込み、艶めかしく動くものを吸い上げた。
「んん……」
「……はっ、侘助…………」
 あえかに名前を呼ばれ聴覚を刺激された侘助は、理一の太股を荒っぽく押し開いた。中心部に膝を擦りつけると、そこが確かに脈打っているのを感じる。
「女みたいに抱いてやろうか。寮には野郎しかいないんだろう? どっちも出来るようにしとかないと駄目なんじゃねーの」
「おまえ……へんな本の読みすぎ」
「いいから、もっと足開けよ」
「おい、侘助……」
 押し倒され、理一は慌てた。突き放さなくては。この手を振り払わなくては。だが、そんな気持ちを揺さぶるように、侘助はひたむきな視線を向け、ぎこちない手つきで理一に触れていく。
「理一。なあ、理一……おれ東京に行くから」
「ばあちゃんから聞いた。東大に行くんだって?」
「うん。ってゆーか、おまえがそうしろって言ったんだろ」
「流されやすい奴だな」
「ばっか、おまえが……」
「え?」
「だからっ……おまえが言ったから、だろ」
 もう黙れと目で制し、侘助は理一のくちびるを塞いだ。シャツをたくし上げ、平たい胸を撫でる。侘助があまりに熱心なものだから、理一はつい笑ってしまった。
「いくら揉んでもデカくなんねぇよ」
「わかってる」
「おまえ好みの巨乳じゃなくて残念だったな」
「黙れよッ」
 怒鳴られ、理一は驚いた。
「大声出すなって。姉ちゃんに聞こえる」
「わかってる。全部、なにもかも……」
「…………」
「わかってないのはおまえの方だよ、理一」
 侘助は項垂れ、つぶやいた。
「おれは爪はじきされたって構わない。慣れてるからな。でも、おまえは嫌なんだ。おまえが嫌なんだろう? 卑怯者。生半可な気持ちで出て行くなんて言うな。おれを置いて行く覚悟もないくせに。胸が痛むからっておれを焚きつけてんじゃねーよクソったれ。ったく、言うこと聞いちまうおれも大概どうかしてるけどな」
「侘助……」
「黙れよ。おまえは綺麗事しか言わない。うんざりする」
 苛立たしげに髪を掻き乱し、侘助は立ち上がった。
「酔ったふりなんかしやがって。むかつく野郎だぜ」
「おまえ気付いて……」
「気付かないとでも思ったのか。はじめから冗談で済まそうって魂胆だったんだろう?」
「違う、おれは……」
「なにが違うんだよッ」
 身を起こしかけた理一の胸ぐらをグッと掴み、侘助は呻いた。
「答えろ、理一」
「…………」
「おれのことどう思っているのか。どんな気持ちでおれを抱いたのか。……答えろよ」
「おれは……」
 息が詰まる。世界が崩れる。夏の暑さが凶器なら、どうか今すぐ殺してくれ。