「またイタズラ?」
 視界に飛びこんできた幾つものバルーンに目を留め、健二は眉をひそめた。いつもは健二の登場など気にせず作業を続行する佳主馬なのだが、まるで隠すようにウインドウを閉じ、取り繕うように「別に」と答えた。 余程いやなことが書いてあったのだろう。健二は何も見ていないかのように、ごく自然に佳主馬のとなりに座った。誰だって自分の誹謗中傷など見たくないし、見られたくないはずだ。きっと佳主馬自身が検索したわけではない。ファンメールを装って悪意をぶつけてくる輩もいるから、そういった類のものだろう。ウイルスチェックはできても、ひとの悪意までは察知できない。これまで何度もファンを装った連中に傷つけられ振り回されてきたというのに、佳主馬は「本当のファンかもしれないから」と言って送られてきたメールすべてに目を通し、ファンサイトのアドレスが貼りつけてあればアクセスしていた。そして先ほどのようなスレッドを突きつけられ、傷つき、なんでもないと強がってみせるのだ。佳主馬は健二のことをお人好しだと言うが、健二から見れば佳主馬のほうがずっとお人好しで優しい。
 あの夏から数年後――一足先に誕生日を迎えた健二は二十歳になり、大人になった。佳主馬は高校生になったが、まだ十五歳。健二と佳主馬の誕生日は約一ヶ月離れているので、その間は五歳差ということになってしまう。日頃から年齢差を気にしている佳主馬は、はやく誕生日が来ないかとやきもきしていた。
 そして年齢以上に変化したもの、それは二人の関係だ。紆余曲折を経て、彼らは恋人同士になった。そういう関係になってから、まだ日は浅いけれど。
 唯一変わらないのはキングカズマの人気だ。ラブマシーンの騒動以降ナツキとカズマは英雄になった。ナツキをカジノステージの広告塔に、という話もあったけれど、当時受験生だった夏希はそれどころではない。彼女は数々の誘いを断り、結果的に世間の目はカズマに集中した。カズマは英雄から伝説のような存在になったし、その反面アンチも増えた。長いこと王者に君臨し続けていれば仕方ないことだ。
 健二は佳主馬の横顔を眺め、その瞳が曇っていることに胸を痛めた。どんな言葉をかけてあげたらいいだろう。なにも言えない自分が歯痒くて腹立たしい。
 ふと佳主馬がキーボードを叩く手を休めて立ち上がった。ゆるやかな動作は美しく、健二はいつもぼやっと見惚れてしまう。佳主馬が恋人になる以前から、健二はもうずっと年下の少年を美しいと思っていた。
「麦茶いれてくるけど健二さんもいる?」
「あ、うん。お願いします」
 頷いた健二を一瞥して佳主馬は部屋を去った。
 静まりかえった部屋のなか煌々と輝きを放つディスプレイ。健二は躊躇いながら、けれど素早くキーボードを叩いた。ネットを立ち上げて履歴を辿る。最終アクセスのURLをクリックすると、すぐさま記憶に新しい画面が表示された。
『KKの中の人を妄想するスレ』
 以前からあった板らしいのだが、最近また凄まじい勢いで伸びているようだ。皆一様にカズマを操っているのは美少女だの何だのと騒いでいる。これくらいなら隠すこともないだろうに……そう思って画面をスクロールした健二は、すぐに認識が過ちだと気づいた。妄想はエスカレートし、夥しいバルーンに羅列されているのは欲望剥きだしのいやらしい言葉ばかり。なんだよ、これ。毒づいた声は自分でも驚くほど暴力的で、健二は喉元を擦り、ぐにゃりと顔を歪めた。
 どれだけの人間が本当にカズマを――そう、佳主馬を知っているというのだ。健二は苛立ちを感じながら、腹の底にある優越感に嫌気が差した。佳主馬を慰める言葉も持たず、守る術さえ知らないのに、独占欲だけは人一倍あるのだから笑ってしまう。
 健二は画面をスクロールしながら頬杖をついた。
 ひどい。ひどい。なんて言葉の暴力。どいつもこいつも頭おかしいんじゃないか。馬鹿なんじゃないか。佳主馬のことなんて何も知らないくせに。あのこがどんな顔して、どんな反応するかちっとも知らないくせに。本当の佳主馬は――――
「なに、見てるの……」
 ギクッと指先が跳ねる。振り返ると佳主馬が肩を怒らせ、頬を紅潮させていた。
「ご、ごめん。気になって……」
 健二の言葉を振り切るようにパソコンに歩み寄った佳主馬は、乱暴に麦茶の入ったグラスを置き、さらに乱暴にキーボードを叩いてパソコンをシャットダウンした。折り畳んだノートパソコンを隠すように膝に抱え、座りこむ。佳主馬は見ているこちらが不憫になるほど、怒りと羞恥で心細そうに震えていた。
 健二には見られたくなかった。自分とは関係ない人間が好き勝手つぶやいているに過ぎない言葉だったけれど、それでも健二には知られたくなかった。佳主馬はただただ自分の惨めさや情けなさを恥じた。ネットの言葉など時間が経てば膨大な情報に埋もれていくだけの消耗品で、気にしていたらキリがない。なんてことないと大きく構えていたいのに、いちいち感情を揺さぶられる自分は弱くて女々しい。だからあんなことを書かれてしまうのではないかとさえ思った。
「ごめんね、佳主馬くん」
「…………別に」
「すぐそう言うんだから。良くないくせだよ」
「健二さんだってすぐ謝るだろ」
「だって本当に悪いと思ってるんだよ。勝手に見てごめんね」
 佳主馬は目を伏せ、ノートパソコンを床に置いた。お許しが出たのだ。
 よかった。健二は思う。それなのにどういうわけだろう。自分の中にあるドロドロした感情は消えないまま、腹の底にある優越感が意地の悪い笑みを浮かべ、ひた隠しにしていた独占欲をすくいあげる。
「ねえ、あれ最後まで読んだ?」
 健二の問いに黒檀の瞳がぐらぐらと揺れる。佳主馬の不安定な瞬きを見るたび健二の心はざわついた。佳主馬の弱さを暴いてみたいだとか、もっと突き放してみたいだとか、けれど縋りついてほしいだとか、そんな感情が渦巻く。
「……読んだよ」
 佳主馬はふっと目を逸らし、自嘲的に笑った。
「馬鹿だよね、あのひとたち。ぼくは美少女なんだって。床上手で感じやすいとか笑える」
「あながち間違ってないけどね」
「健二さんっ」
「あはは、ごめん」
 健二は悪びれた様子もなく佳主馬にキスした。不意を衝かれた佳主馬は抵抗する間もなく手首を掴まれ、押し倒される。
 佳主馬はキスの嵐で酸欠になりながら、肌に触れるラグの感触に目を細めた。新品のキルトラグはさらっとして涼やかだ。先週、今日の約束を取りつけた際に「夏用を買ったから」と健二が意気揚々と話していたことを思いだす。数学ができる環境と眠る場所さえ確保できればそれでいいと考えている健二が、唯一佳主馬のために気を遣っているのがラグだった。ベッドが参考書に埋もれているため、事に及ぶのは大抵フローリングの上だったからだ。ラグを買うよりベッドを掃除したほうが賢明だけれど、健二が自分のためにラグの感触を確かめ、選んでいると思えばしあわせだ。だらしないひと。かわいいひと。佳主馬はゆっくり健二の背中に腕を回し、目を閉じた。
 互いの唾液を貪るように深いキスを交わす。健二は床に置かれたノートパソコンを視界の端に留め、佳主馬の指先にくちびるで触れた。苛立ちが、いつの間にか性的興奮にすり替わっている。ひどいのは誰だよ。健二はあつく張りつめた自分自身をせせら笑った。
「指を……こうすると喜ぶんだって、ね……?」
「ちょっと健二さん」
 指を味わうように舐り、それから皮膚が薄くて敏感な指の間に舌を這わせた。
「やめてよ」
 佳主馬はむず痒いような表情で健二の顔を押し返した。健二は「好きなんだ?」と意地悪く笑う。
「性格悪いよ、健二さん」
「そうだねえ」
 健二はふふっと笑い、赤いラグランスリーブのシャツを脱がせた。
「……濡れてる」
「あつい、から……」
 剥きだしになった脇をつと撫でてキスすると、佳主馬は頬を紅潮させ呻いた。
「ねえ、これも好き?」
「…………あっ、ちょ……そんなとこ舐めないでよ」
「しょっぱいね」
「汗なんだから当たり前だろ」
 上擦った声に、健二はふと顔をあげた。佳主馬の目は感じ入ったように潤んでいる。健二は鼻先をすり寄せ、ひどく甘ったるい声で囁いた。
「本当にここで感じるんだ? あそこに書いてある通りだね」
「ほんっと性格悪い! もう離してよ」
「あとは何だっけ? ここが弱くて、そこが好きで……」
「んっ……ぅう、あ……健二さんってば」
「髪がさらさらでイイにおいがするとか……」
 健二は艶やかな黒髪をすくいあげて深呼吸した。清潔なシャンプーのにおいがする。首筋に顔を埋め、また深く呼吸する。佳主馬のにおいだ。
 健二は佳主馬の耳朶を舌先で愛撫し、ねっとり舐めあげた。
「なんでみんな知ってるのかなあ。……震えてるね。感じじゃった? 目も真っ赤だし、うさぎみたいだね。しっぽあるか確かめてみようか。佳主馬くんはキングとおそろいのしっぽがあるらしいよ」
「あんなのただの妄想だろ! なんなの、もう……健二さんおかしいよ。へんだよ」
「そう、だね……おかしいかもしれない」
 健二はぼんやり佳主馬を見下ろし、つと佳主馬の胸に顔を埋めた。
 まるで丸まった猫みたいだ。佳主馬はため息を吐き、甘やかすように健二の頭を撫でた。
「みんな好き勝手言ってるだけだよ」
「わかってる。でも嫌なんだ」
 それが悪意だとか好意だとかは関係ない。自分以外の誰かが佳主馬のことを考え、都合の良いように解釈し、好き勝手弄ぶのは嫌だ。佳主馬自身が犯されているようで堪えられない。
「だって、きみは僕のものなのに」
 骨が軋むほど抱きしめられ、佳主馬は痛みに顔をしかめた。苦しい。息ができない。腕が折れそうだ。壊れてしまう。佳主馬はあえかに呼吸して涙をこぼした。痛い。痛い。痛い。それなのに嬉しいなんて。
「健二さんだけ、だよ……ぼくをこんな風にできるのは健二さんだけだ」
「……うん」
 健二の腕が僅かにゆるんだ。安堵のため息が漏れるのと同時にさみしさが募る。佳主馬は堪らず健二を引き寄せ、くちびるを重ねた。舌先を絡めて健二の唾液を味わう。それから佳主馬は体勢を入れ替え、健二に跨った。
「佳主馬くん?」
「健二さんはもっと、ちゃんと……ぼくのこと知ってるだろ…………?」
 佳主馬の手に導かれ、白い手のひらが褐色の肌を滑る。健二は重なった手のひらの軌跡を辿り、いつも触れている敏感な部分にそっと自分の指先が触れるのを見つめていた。感触と体温。これは、誰にもわからない。自分だけが知っているもの。自分だけのものだ。
「あそこより、ここが好き……とか、そうされるとすごい感じるとか……あのひとたちは知らないんだよ。健二さんがほしくて、こうなることも…………」
 ひくっと体を震わせ佳主馬は腰を浮かせた。呼吸を乱し、瞳を潤ませながら、すくいあげた健二の蜜を秘部に塗りこむ。指を一本、二本、ゆるやかに差しこみ、やがて佳主馬は三本目よりも健二を強請った。
「僕の……ほしいの?」
「んっ、うん…………」
 ぎこちなく頷いた拍子に佳主馬の顎から汗が伝う。健二は微笑み、体を起こして首筋の汗を舐めた。
「佳主馬くんがうんと感じるように抱いてあげる。……ねえ、どうしてほしい?」
「健二さんの好きなようにしてよ…………それが、いちばん感じる」
「……そっか」
 それなら今日は一日中こうして抱き合っていたい。前から後ろから存分に味わって、隅々まで愛撫して、自分だけしか知らない痕をつけてやる。
 乱暴な愛情をひた隠しにして、健二はやんわり佳主馬を押し倒した。

 精液と汗でべたべたになった手もいつの間にか乾いてしまった。健二はラグの上で丸まっている佳主馬にタオルケットを掛け、ひんやり冷えたノートパソコンを引き寄せた。佳主馬を起こさないよう用心深く開いて電源を入れる。すると、すんなりデスクトップが表示された。先刻と同じようにネットのアクセス履歴からスレッドを呼びだす。スレッドは伸びていたが、相変わらず不愉快な発言しか見当たらない。健二は目を眇め、画面に羅列された文字と己のぼやけた輪郭をせせら笑った。どいつもこいつも反吐が出る。こんな子供に劣情を抱く自分自身も。
 健二は軽やかにキーボードを叩き、何事もなかったようにパソコンをシャットダウンした。佳主馬の背中に鼻先をすり寄せ、うしろから抱きしめる。肩にくっきり浮かびあがった歯型を満足げに眺め、健二は目を閉じた。