ぼくには年上の恋人がいる。だらしなくて甘えたで、わがままで気まぐれ。結構どうしようもないひとだ。数式を解くのに夢中になって約束を平気ですっぽかすし、酔うとキス魔になって誰彼無しに舌まで入れる。キスマークをつけて帰ってきても知らぬ存ぜぬで、翌朝には本当にケロッと忘れている。そうかと思えば泣きじゃくりながら謝るときもあるし、逆切れするときもあった。ぼくは四六時中どうしようもない恋人に振り回されているわけだ。
 思えば出会ったときから振り回されていた。巻き込まれていた。あの夏から今まで彼だけを見つめてきた。そうさせたのは彼だ。ぼくの心を奪って、ぐちゃぐちゃにした。苦しかった。たった四つの年の差がもどかしくて、男同士という壁をつくる性別が邪魔で、彼に選択を迫る自分に苛立って、ぼくから逃げる彼が憎らしくて、悲しかった。彼は簡単にぼくのことを傷つける。ぼくを蔑ろにする。それでもぼくは彼が好きだった。諦めきれなかった。どうしても彼に振り向いてほしかった。ぼくらがしていたことは消耗戦だったのかもしれない。ぼくの気持ちに応えてくれたとき、彼は「きみには負けたよ」と言ったのだ。
 でも、ぼくの戦いは続いている。数学に勝てる気はしないけれど、諦めないことが肝心だ。

「じゃあ数学を味方にすればいいじゃん」
「……はあ?」
 ぼくの声を軽やかに無視し、佐久間さんは空になったジョッキを掲げて「おかわり」と元気よく叫んだ。愛想のいい店員が即座に応え、あっという間にビールを運んでくる。
 カウンターだけで構成された狭い店内は賑やかで、となりの席から聞こえてくる会話も曖昧だ。不純同性交遊について話していてもなんら問題ない。みんな上司の悪口や恐妻の文句を言うのに必死なのだ。
 ぼくは佐久間さんのアドバイスで何度も痛い目に遭っていて、もう懲り懲りだと思っているのに、健二さんのことを一番理解しているのは彼だし、清く正しい高校生活を送っている友人に男同士のアレコレなんて相談できない。
「無理だよ。あのひと面白がって無茶なこと言ってくるし」
「たとえば?」
 ぼくは言葉に詰まり、コーラをちびりちびりと飲んだ。
「おい、なんだよ。気になるだろ」
「…………円周率100桁覚えるまでやらせてくれなかった」
 佐久間さんは変な声を出してカウンターに突っ伏した。肩を震わせ、そう、必死に笑いを堪えている。
「おまえらってマジおかしい」
「おかしいのは健二さんだよ」
「おまえガチで100桁覚えたわけ?」
「覚えたよ。折角だから暗唱してあげようか」
「いや、結構です。笑いすぎて涙出たわ」
 佐久間さんは目尻を拭い、ため息を吐いた。
 ため息を吐きたいのはこっちだ。円周率以外にも素数100桁を覚えさせられたのは黙っておこう。
「だけど実際、やっぱり健二には数学だよ。数学。うん、そうしよう」
 唐突に腕を引っ掴まれ、ぼくは戸惑いながらも立ち上がった。佐久間さんの目を覗きこむと、いつの間にか酔っ払いのそれに変わっていた。お会計を済ませてタクシーを拾う。佐久間さんを座席に押し込んで帰ろうと思っていたのに、またもや佐久間さんは強引にぼくの腕を掴んでタクシーに引き込んだ。目的地を尋ねる運転手に答えようとしたけれど、佐久間さんは勝手にぼくの家に行ってくれと告げた。ぼくの家は、健二さんの家でもある。
「また転がり込むつもり?」
「いーから、いーから」
 タクシーは夜の国道を走り抜け、ぼくらを家まで届けてくれた。そろそろ健二さんもバイトから帰ってくる頃だ。
 家に着くなり佐久間さんはマジックを持ち出して「服を脱げ」と言った。ひどい既視感に襲われ、ぼくは思わず後ずさる。
「佐久間さん?」
「なに書く? 円周率100桁でも書いとく?」
「書きません」
 げんなりして佐久間さんからマジックを奪う。
 数年前、どうやったら健二さんを振り向かせられるのかと佐久間さんに相談したことがある。そうして今回と同じように導きだされた「やっぱ数学だよ、数学」という佐久間さんのアドバイスから、ある作戦を考えた。難解な数式を体に書いて健二さんを興奮させようっていう、バカの極みみたいな作戦だ。もちろん失敗した。むしろ決行するまえに破綻した。ぼくの黒歴史だ。
「ってゆーか、なんでセックスの話になってるの?」
「………え? 違った?」
「違うよ。ぼくは健二さんとやる方法じゃなくて、精神的な繋がりを保つにはどうしたらいいかってことを相談していた、つもりだったんだけど」
「あー……うん、でも結局は一緒じゃん。セックスの相性って重要よ? あいつ淡泊そうに見えるけど案外むっつりだし」
「それは、……否定しない」
「だろー?」
 佐久間さんは笑って視線をドアの向こうに巡らせた。ぼくもつられて振り返る。健二さんの足音がした。佐久間さんと、健二さんの足音が近づく。玄関のドアが開く。ぼくの口は塞がされて息もできない。忘れていたけど、佐久間さんも酔っぱらうとキス魔になるのだった。
「ゴチになりました」
 口元を拭い、佐久間さんは満足げに笑っていた。じっとり舌を舐られ、ぼくは思わずへたり込んだ。あんなキス、健二さんともしたことない。ぼくの顔は赤くなってるんだか青くなっているんだか想像もつかない。佐久間さんに怒っているし、硬直して表情のない健二さんに怯えていた。
 健二さんが靴を脱いで大きく一歩踏み出した。そのまま拳を振りあげて佐久間さんに殴りかかる勢いだ。
「け、健二さ……ッ?!!」
 止める間もなく健二さんは、佐久間さんに、とびっきり濃厚なキスをしていた。
 呆然としていると、健二さんは「ごちそうさま」と吐き捨てて佐久間さんを玄関から追い出した。鍵を掛け、チェーンまで掛けてから健二さんはくちびるを拭い、ため息を吐いた。
「佐久間とキスしちゃったよ。……最悪だ」
 苛立たしそうに髪を掻き乱し、健二さんは俯いた。すこし明るい色をした瞳から涙がこぼれ落ちる。ギョッとするぼくに歩み寄り、彼は乱暴にぼくの胸ぐらを掴んだ。
「どうして俺以外とキスするの」
 こぼれる涙に目を奪われながら、ぼくは予想外の言葉に驚くあまり冷静なツッコミを入れてしまった。
「け、健二さんだって佐久間さんとキスしたじゃん…」
「佳主馬くんのをっ、取り返したんだよ」
 なにを、とは訊かないでおく。健二さんと佐久間さんは長いことキスしていたので、まあ取り返したかったものは(気持ちの問題だけど)取り返せたのかもしれない。
 健二さんは身を屈め、ぼくに涙を見せつけた。みんなが泣くようなときには泣かないのに、変なところで彼の涙腺は脆くなる。涙を拭おうと手を伸ばすと、彼はそっぽを向いてしまった。
「健二さん」
「……してよ。キス、してくれないと許さない」
「何度だってしてあげる。健二さんのためなら何だってしてあげたいと思ってるよ」
 健二さんを抱き寄せてキスすると、彼はくすぐったそうに「知ってるよ」と囁いた。
「性格悪いなあ」
「知ってたでしょう?」
 ぼくらは笑って、くちびるが痛くなるほどキスをした。

「そういえば、どうして佐久間が来てたの?」
 服を脱いで、さあこれからという時だった。黒歴史を思い出したせいで萎えそうになる。ぼくは健二さんの薄い胸にくちづけて聞かなかったふりをしようとしたけれど、健二さんが許してくれるはずもない。彼は頑固なのだ。ぼくは仕方なく、すこしもったいぶって口を開いた。
「ごはん一緒に食べて、佐久間さんが酔って、うちに転がりこんできたんだ。いつもと一緒だよ」
「へえ……?」
 健二さんはにこにこ笑っている。本当に、優しそうに、笑っている。
 こわい。ぼくは観念して、佐久間さんに恋愛相談していたこと、それから黒歴史の片鱗を話した。あのときはアレコレあったわけだけど、その内容は口が裂けても健二さんには言えない。
 健二さんは俄然興味が湧いてきたのか、興奮した様子でぼくに圧し掛かってきた。足をばたつかせて子供みたいだ。
「どんな暗号だったの? 覚えてる?」
「覚えてるわけないだろ」
「見たかったなあ」
 心底残念そうに健二さんがつぶやいた。
「ぼくは時々、本当に健二さんと佐久間さんは親友なんだって痛感するよ」
「そう?」
 目をぱちくりさせて健二さんはぼくを見下ろした。考えこむようなまなざし。なんだか胸がざわついた。さっと視線を巡らせてペンの在処を確認する。いつでもどこでも計算ができるよう、この家には至るところにメモとペンが散乱している。ベッドサイドに置かれたペンの存在に健二さんが気づかないよう祈るばかりだが万事休す。健二さんはしっかりペンを見ていた。
「ねえ、佳主馬くん」
「嫌だよ」
「なにも言ってないじゃない」
「言ってないけど、わかるよ。絶対に書かせないからね」
「……佐久間には書かせたくせに」
 そう言われてしまってはぐうの音も出ない。ぼくが黙りこんでいると健二さんはにっこり微笑んだ。
「ぼくのためなら何でもするって言ったよね?」
「健二さん、それ夏希姉ちゃんのセリフ」
「ぼくが洗ってあげるから。いいでしょう?」
 なにがそんなに彼を突き動かすのか。やれやれ。ぼくは覚悟を決めて身を投げだした。
 数学の問題集を持ちだして、彼はパッと引いたページにある数式を書き始めた。はじめは楽しそうにしていたけれど、紙と違って体には凹凸がある。スムーズに書けないことに健二さんはだんだん苛立ちを見せた。ぼくだって健二さんに触れられている状態で欲情を放っておかれるのはつらい。
「もう満足した?」
 ぼくは苦笑しながらペンを取り上げた。健二さんが抗議するよりはやくキスして、くちびるを塞ぐ。体勢を入れ替えて健二さんに覆い被さると、彼は自分で書いた数式を指でなぞって目を細めた。
「まだ解いてないのに」
「気が散ってたくせに」
「……だって」
「なに?」
「おいしそうなんだもん、佳主馬くん」
 ペンを投げ捨て、ぼくは思いきり健二さんを抱きしめた。ああ、このまま健二さんを食べてしまいたい!

「あ、滲んじゃった」
 ぼくの胸元を見つめ、健二さんはすこし悲しそうな声をあげた。目線を落とすと確かに手描きの数式が滲んでいる。健二さんの手にもインクが移っていた。
「シーツ汚れちゃうかも。ってゆーか健二さんが汚れちゃうか」
 健二さんから体を離そうとすると、健二さんは子供みたいにしがみついてきた。彼は華奢なくせに力がある。健二さんと重力には逆らえず、ぼくはくしゃくしゃになったシーツに肘をついた。健二さんとの距離が一気に縮まる。額を小突いて、鼻先でじゃれ合う。互いにキスをねだって、ゆっくり溶けあう体温の心地好さに目を閉じる。世界に二人きりでいるみたいな、この瞬間が好きだ。
「あとで一緒にシャワー浴びればいいか」
 どうせこんな状態でベッドから、健二さんから離れるなんて無理だ。
「健二さんだって、もう歩けないよね?」
 腰を撫でると健二さんの体が跳ねた。身を屈め、きれいな桜色にくちづける。ひとつを舌でくすぐると、健二さんの甘い声がぼくの鼓膜を刺激した。もっと聞きたくて、ぼくは片方の手をブランケットのなかに忍ばせた。健二さんの声が一段と甘くなる。あつくなった自分のものと健二さんのを擦り合わせ、ぼくは堪らず腰を揺らした。
「あっ、ダメ……かずまくん、待って…………」
「ぼくのこと、おいしそうだって言ったよね。……食べたい?」
 体を起し、あえかに抵抗する健二さんの足を開く。健二さんの敏感なところはひくつき濡れていた。
「ぼくを食べたい?」
「…………食べたい、です」
 健二さんのノドが鳴る。ぼくは彼の両足を抱え、ゆっくり腰を押し進めた。
「……っう、んぅ…………」
「声、聞かせてよ」
 声を押し殺そうとする健二さんの口を指で抉じ開け、彼のなかを愛撫する。出ていこうとするぼくをきゅっと締めつけるのがかわいい。
「健二さんは……」
「な、なに……?」
「素数とか円周率を聞いて心が落ち着くって言うけど、本当?」
「なんでっそんなこと聞くの……?」
「してるときにも効果あるのかなって、思っただけ。逆に興奮しちゃうかな。試したことある?」
「…………」
「その顔は試したことあるんだ」
 健二さんの頬が一気に真っ赤になる。なるほど。ぼくは健二さんの耳元で円周率を囁いた。途端に健二さんは素直に反応した。
「健二さん、自分で数えてみたら?」
「やっやだよ……」
「言いなって。ほら、健二さんなら言えるよね?」
 どんな理由があれ、やっぱり佐久間さんとキスしたのは許せない。ちょっとした仕返しだ。
 健二さんは目を伏せ、消え入るような声で円周率を数えはじめた。健二さんの声は快感に震えている。潤んだ瞳が劣情を煽る。ぼくは夢中で健二さんを貪った。
「かずまくん、ダメだよ…できないよぉ……」
「……イキそう?イっていいんだよ、健二さん」
「ん……ぅん、もう……」
 健二さんの熱さを下腹部に受けながら、ぼくは健二さんのなかで果てた。ベタベタになった足を絡ませ、吐息混じりのピロートークを交わす。ぼくが二番目に好きな瞬間だ。
「全然言えてなかったね、円周率」
「うっうるさいなあ!仕方ないだろ、あんな……あんなこと……」
「じゃあ100桁言えるようになるまで頑張ろうか?」
「なっ……」
 ぼくは笑いながら赤くなった頬をやんわり撫でた。数学を味方にする方法が、すこしだけわかった気がする。