あの夏は僕にとって宝物のようで、夢のような出来事だった。輝かしい記憶は夏の終わりとともに曖昧になって、薄れていく。日常が舞い戻ってメモリを食い潰している。記憶が上書きされていく。あのとき上ったはずの階段を後退している気分だ。
 あの夏から一年近くが経ち、受験生になった僕は周囲からのプレッシャーに押し潰されそうな毎日を送っていた。なんて、それは嘘。本当はちがう。僕は誰よりも自分に期待している。追いつめている。口先では無理だと言い訳しながら、それでも本心は僕なら大丈夫だと思っている。驕りなどではない。よくある根拠のない自信というやつだ。僕は案外、僕という存在をちゃんと信じている。
 それでもふとした瞬間、強烈なマイナス思考に囚われてしまうときがあって、僕は今まさに究極のネガティブ周期に突入するところだった。担任から東大は厳しいと言われ、模試の結果も散々で、夜が明けて楽しい土曜日が始まったと思ったら、父さんと母さんは久しぶりに会ったというのに朝から喧嘩していて、そのせいで家の空気は重苦しいし、自室に引きこもるにもクーラーは壊れていて、それじゃあ佐久間の家に逃げ込もうと連絡したものの先約があるからと断られ、それらの積み重ねで僕の感情はマイナスへと変貌していた。
 家を飛び出したはいいけれどファミレスも喫茶店も満席で、行き場のない僕は炎天下をあてもなく彷徨った。帽子をかぶってくればよかったな。手でひさしを作り、天を仰ぐ。呆れるくらい真っ青な空に、もくもくと膨れ上がる入道雲が見える。民家から時折ひまわりが覗き、ささくれた心がすこしだけ和らいだ。今日の空は、あの夏の空に似ている。
 いつの間にか公園に踏み込んでいた僕は、懐かしい風景に目を細めた。小さい頃、たぶん今日みたいな真夏の午後。ひとりで留守番していた僕は心細さのあまり家を抜け出した。母さんに会うためだ。母さんの職場には車で数回行ったことがあり、その不確かな記憶を頼りに五歳の子供がたったひとりきりで目的地を目指したわけだ。まったく無茶をする子供だったと苦笑いしてしまう。だけど当然、僕は迷子になった。刻々と時間は過ぎ、太陽は傾き、気付けばこの公園にたどり着いていた。
 薄汚れたベンチと錆びついた鎖で吊されたブランコ。木々で囲まれた空間はちょっとした秘密基地のようだ。
 汗を拭い、ブランコに腰掛ける。ポケットから携帯を取り出した瞬間メールの受信音が響いた。タイミングの良さに驚いてしまう。誰からだろう。驚きでドキドキしたままの胸を押さえ、僕はそっと携帯を開いた。
 差出人の名前は、小磯健二。
 僕は思わず絶句した。同姓同名の知り合いなんていないのに。僕は首を傾げ、携帯を凝視した。おかしなことに表示されているメールアドレスが僕のものとまるきり同じだ。怪しすぎる。ラブマシーンの一件以来、覚えのないメールには殊更用心するようになった僕だ。
 でも、どうしてだろう。妙に引っかかる。僕はほとんど無意識に携帯を操作してメールを開いた。
 差出人は小磯健二。件名は無し。本文には「まいごになった」と書かれている。
 ここからの帰り道はわかっているし迷子ではないけれど、今の状況を言い当てられたようで不気味だ。メールを削除しようとした矢先、ふと画面が黒くなった。まさか故障? 焦っていくつかのボタンを連打すると、何事もなかったかのように元の画面が表示された。元の、というのは正確ではない。そこに表示されている文章は先刻見たものとちがう。「まいごになった」と表示されていたはずの画面には「さみしいよ」とあって、また画面が黒くなったと思えば今度は「帰りたい」、「会いたい」と表示される。次々と切り替わる画面は気味が悪く、けれど僕は目が離せなかった。
 得体の知れないメールを寄越す小磯健二なる人物は、いつかの僕と同じように迷子になり、公園で心細い思いをしているらしい。思わず辺りを見渡したけれど人影はなかった。
 僕は何故そうするのか自分でもわからないまま「どこにいるの?」と打った。そうして送信ボタンを押すと同時にひどく大きな揺れを感じた。
「え……?」
 そういえば迷子になってここへ来たときも地震があった気がする。
 僕は思わず鎖を握りしめた。その刹那、手のひらから携帯が滑り落ちる。コマ送りのように落下していく携帯は易々と掴み取れそうで、僕は咄嗟に鎖を離して腕を伸ばした。すべてがスローモーションのようにゆるやかで、僕の指先はまずストラップに触れ、白く滑らかな無機質をゆっくり手のなかに収めた。
 途端に時間の流れが正常に戻る。体勢を崩した僕は重力に耐えきれずブランコから転げ落ちた。両手をついて顔を上げると、背後でブランコの揺れる音がした。地震の名残だろうか。
 振り返ってみると、ブランコに五歳くらいの少年が乗っていた。少年は目を丸くして僕を見つめている。その表情をしたいのは僕のほうだ。だって公園の敷地内はおろか周辺に僕以外の人間はいなかった。
 ただ、それよりも何よりも僕を驚かせたのは、少年が僕そっくりだということ。僕が着ていた服を着ていること。なんの偶然か僕の使っていた携帯を持っていることだ。
「あの、おにいさんはどこから来たんですか……?」
 それは僕の台詞だ。混乱した頭を落ち着けようと素数を数える。数えながら、携帯がメールの受信を報せるべく点滅していることに気づいた。差出人は小磯健二だ。慌ててメールを開くと、どこにいるの、という僕の問いかけに対する返事が、この公園の名前が記されていた。
 僕はハッとして立ち上がり、少年を見下ろした。少年は眉毛を八の字に描き、不安そうに携帯を握りしめている。
「その携帯、ちょっと貸してくれないかな」
「え? でも、その……」
「すぐ返すから」
 僕は少年と目線を合わせ、お願いしますと頭を下げた。
 おずおずと差し出された子供用の携帯は丸っこくてツルツルしている。ひさしぶりの感触に僕は戸惑った。小さくて軽くて、まるでオモチャのようだ。
 ごめんねと断ってから携帯を開く。待ち受け画面には予想通りと言うべきか、耳の大きいクマのようなネズミのようなアバターがちょこんと佇んでいた。ラブマシーンと深く関わったとされ、削除対象となってしまった僕のはじめてのアバター。目にするのは去年の夏以来だ。懐かしい。
 だけど思い出に浸っている場合じゃない。僕は急いでメールの受信ボックスを確認した。最新メールの差出人は僕、小磯健二。念のため送信ボックスも覗く。最近送られたものはたったの一通だけ。公園の名前を書いたメールだった。
「これ以外に最近メールを送らなかった?」
 画面を見せながら訊ねると、少年はふるふると首を横に振った。小磯健二からのメールは彼から送られたものだと思ったけれど、どうやら違ったようだ。
 僕は居心地悪そうにしている少年と手のなかの携帯を交互に見つめた。タイムスリップの可能性を考えるなんて、僕はどうかしている。けれど目の前にいる少年は薄気味悪いくらい僕にそっくりだし、何から何まで僕が使っていたものと同じものを手にしている。つまり僕は、彼がいつかの僕なのではないかと推測していた。
 僕が受け取った小磯健二からのメールは彼が送信したもので、僕はなんらかの理由で過去なりパラレルワールドに飛んで来てしまったのだ。少年の携帯に表示されていた年月日が、きっかり十三年前を示していたから過去に来たと考えるのが妥当だろうか。
 冷静に馬鹿馬鹿しいことを考えているけれど、手汗が止まらないほど内心は焦っているし、心から夢オチを望んでいる。実際タイムスリップしていた場合どうやって戻ればいいか見当もつかない。
 本当に、彼が僕なのか。確かめる方法は簡単だ。名前を聞いてみればいい。両親の名前を、住所を、それから好きな数字を教えてもらえばいい。
「ねえ、数学は好き?」
「うん」
 少年はこくこくと勢いよく頷いた。
「好きな数字を教えてくれる?」
「に……」
 少年は頼りないピースサインをして、すぐに手を引っ込めた。
「どうして?」
「ぼくの名前にも2があって、2は、一番目の素数だから」
「素数は好き?」
「だいすき」
 少年の瞳が見違えるように輝く。
「掛け算も円周率も好きだけど、素数がいちばん好き」
「……僕もだよ」
「ほんとう?」
「うん。僕の名前にも2があるんだ」
 笑って、僕は少年に携帯を返した。となりのブランコに腰かけ、つま先で軽く地面を蹴る。少年は僕の横顔をしばらくジッと見つめていたが、ぎこちなく地面を蹴ってブランコを揺らした。
「ぼく健二って名前なんです。おにいさんは?」
「僕も……えっと、健二です」
「そうなんですか?」
 少年は目を丸くし、乏しい漢字の知識を交えながら自分の漢字と僕の漢字が一致しているかを確かめようとした。彼と僕のフルネームは漢字まで一緒だった。
 僕は確信する。やっぱり彼は、いつかの僕だ。その『いつか』は、迷子になり、この公園にたどり着いてしまったとき。そうだ、思い出した。この公園に来たのは『今日みたいな日』ではなく、本当にちょうど十三年前の今日だったんだ。
 僕は自分の携帯を開き、改めて受信メールを見た。
 まいごになった。さみしいよ。帰りたい。会いたい。それらは全部、母さんに送ろうとして消したメールだった。心細くて、助けを求めたくて、会いたくて、でも伝える勇気がなかった。勝手に家を出たことを怒られるかもしれない。迷惑になるかもしれない。そう思うと、どうしても送信ボタンを押せなかった。
 十三年前に送り損ねたメールが、どういうわけか十八歳の僕に届いた。意味はないかもしれない。ただの夢かもしれない。それでも心の奥底に閉じこめたままの思いは届いた。だって本当は伝えたくて仕方なかった。だから、僕はここに来たのかもしれない。
「あのね、僕にも送りたくても送れないメールがあるよ」
 少年は不思議そうに僕を見た。どうして送れないメールがあることを知っているのだと言いたげだ。少年にやんわり笑いかけ、僕は手にした携帯を見つめた。
「勇気がないんだ」
 送られてきたメールに返事をしないまま夏休みが近づいている。また夏休みに会おう、そう約束して僕は東京に帰った。だけど時間が経つにつれ躊躇が生まれ、好意を裏切るように遠慮が疼いた。一年前の夏休みは眩しすぎて、それに触れるのが僕はこわい。記憶が上書きされてしまうのがこわい。
「でも、このまま会えなくなっちゃう方がこわいよね」
「え?」
「たまには我慢しないで甘えてみたっていいよね」
「な、なに言ってるの……?」
「きみと僕のこと」
 立ち上がり、僕は少年のまえにひざまづいた。
「きみはこれからもさみしい思いをたくさんするかもしれない。だけど大丈夫。きみはひとりじゃないよ」
 小さな膝小僧に置かれた手を握りしめると、少年はひくりとのどを鳴らした。
「ひ、ひとりだよ……ぼくはいつもひとりなんだ…………」
「今はそうかもしれないけど、もうちょっとすれば大切な友達ができるよ。好きなひともね。それから、きみを家族みたいに受け入れてくれるひとたちに出会うんだ」
「おにいさんは魔法使い? 未来のことがわかるの?」
「ちょっとだけね」
 くちびるのまえで人差し指を立て、「ナイショだよ」と笑う。
 そのとき微かに地面が揺れた。この地震は、たぶん十三年前に体感したもの。時間切れなのだとなんとなく悟る。立ち上がり、僕は少年を見下ろした。
「おにいさん……?」
「お別れみたいだ」
「ま、待って! 数学のこととか未来のこと、もっと教えてよ。もっと一緒におしゃべりしたいよ」
 小さな手がシャツの裾を握りしめる。少年の瞳から涙がポロポロこぼれ落ちる。途端に揺れが大きくなった。僕はとっさに彼を抱きしめる。華奢な体がぎこちなく身じろぐ。近い体温に戸惑っているのだろう。僕は抱きしめられることに慣れてない子供だった。
「大丈夫、こわくないよ。僕がそばにいるよ」
 鼻先をくすぐる何年も変わらないシャンプーのにおい。僕は少年の頭を撫で、背中を優しく叩いた。
「きみはひとりじゃないよ」
「……うん」
「また絶対に会えるから」
「ほんとう?」
「約束する」
 体を離して小指を差し出すと、少年はくちびるを噛みしめ、涙を拭い、僕と指切りした。
 地面が揺れる。世界が回る。
 僕は目を瞑り、ぎゅっと少年を抱きしめた。少年の体から力が抜ける。戸惑いは感じられない。それどころか彼はおずおずと僕の背中に腕を回し、安心したように僕の胸へと身を寄せた。それはバラバラになった体がひとつになるようで、とても心地好い。
「僕も勇気を出してみるから、きみも頑張って」
 囁きが風にさらわれる。僕の意識も遠くなる。抱きしめたぬくもりは消えて、肌に触れるのはざらついた砂の感触だけ。目を開ける。僕は自分が寝転んでいることに気づいて驚いた。飛び起きると背中にブランコが激突した。
「いっ……」
 打ったところを擦り、振り返る。そこには当然、誰もいない。この公園には僕以外いなかった。
 吹き抜ける風に目を細め、僕はブランコに腰掛ける。地震など起きなかったかのように世界は静寂と平穏に包まれていて、射るような日差しは身を潜めている。風が涼しい。もうじき夕闇が訪れて夜になる。
 そのとき僕の携帯が騒がしく鳴った。母さんからだ。出てみると帰りを心配する声が聞こえた。母さんと父さんは仲直りしたようだ。すぐに帰ると伝え、通話を終える。迷子になったときは泣きながら電話して母さんをびっくりさせたっけ。あのときは結局、母さんが迎えにきて一緒に帰ったんだ。
 だけど今はひとりで帰れる。行きたいところに行ける。迷っても地図を見て、歩いていける。僕は成長した。五歳のときよりも、一年前よりも、ちゃんと前に進んでいる。
 手にした携帯の着信履歴を辿る。僕を呼んでいるひとの名前を見つめる。また一緒に夏休みを過ごそうと約束した。だから、電話をしよう。返信できなかったメールのことを謝ろう。みんなにもすごく会いたいって、いちばん会いたいひとに伝えよう。さあ、勇気を出して。きっと僕なら大丈夫。