バスに揺られながら健二は慣れた手つきでネクタイを締めた。母から借りた手鏡をのぞき込み、癖のある髪を撫でつける。準備万端。これで身支度は整った。手鏡をリュックのポケットに仕舞い、ハンカチで汗を拭う。窓の外には懐かしい風景が広がっていた。
 やがて健二を乗せたバスは目的の停留所に到着した。健二以外に降りる人間はいない。傍らに置いてあった大量の荷物を軽々と持ち上げて健二はバスから降車した。両手に下げた紙袋には母から持たされた土産がこれでもかと詰め込まれている。細い体つきのわりに健二は力があるので、大荷物は苦にならない。夏希の手土産を運んだ去年の夏を思い、健二はそっと笑みを浮かべた。
 この坂を上れば、みんなに会える。途端に嬉しさと不安がない交ぜになった感情が健二の心を占めた。まったく意気地がない。健二は俯き、つま先を見つめた。歩け。進め。命令する。地面に影が縫いつけられたように頑として動かない。こんなことなら夏希と一緒に来ればよかった。そうすれば彼女の前向きな力に圧倒されて、こんな気持ちになることもなかったのに。
 ただ、夏期講習にはできるだけたくさん出ておきたかったのだ。それが、健二が遅れて上田にやってきた理由だった。
 健二は東大を目指している。死に物狂いで勉強しないと合格には程遠い。今まで健二は、卒業後の進路については無難に進学するという考えしかなかった。理数系に進みたいという希望はあったものの国立に行きたいなどと思ったことはない。自分の将来について健二には漠然としたイメージしかなかった。だが、あの夏を経て侘助が身近な目標となり、健二の心境は少なからず変化した。もっと数学を学びたいと願った。健二は天才ではない。数学が得意な少年、その程度だ。だから学ばなくてはならない。教えを請わなければならない。それならば学習する環境が整っているところがいい。難解な数式を解く術を学ぶには、それなりのところに行かなくてはならない。そう考え、東大を目指すことに決めた。うだうだ考える性質ではあるが、一度こうと決めたらすぐ実行する健二だ。両親に進路希望を打ち明け、即座に夏期講習の参加を申し込んだ。惜しくも数学オリンピックの代表にはなれなかったが、東大に合格すれば惨めったらしい劣等感もすこしは払拭されるだろう。
 だから今ここにひとりで来ている。健二はギリギリまで夏期講習を受け、栄の一周忌に間に合うよう新幹線に飛び乗った。健二は正直、直前まで上田行きを躊躇っていた。みんなと再会するのがこわかった。なんの変哲もない日常で、みんなの知っている小磯健二がただの凡庸な男であると暴かれるのがこわかった。上っ面だけを見るひとたちじゃない。それほどみんなが自分に期待しているわけでもなく、平凡な家庭で育った平凡な少年と思っていることもわかっている。それでも、あの夏の自分は自分じゃないみたいで、すこし他人行儀で、眩しくて、こわい。比べられ失望されるのではないか。呆れられるのではないか。そんな不安がつきまとう。
 いつも、いつだって、歩きだしたと思ったら立ち止まっている。踏みとどまってしまう。
 健二はつま先に縫い止めていた視線を上げ、遠くに見えるシャツの白さに目を細めた。風をはらんだシャツが膨らんでいる。健やかに伸びた腕はきれいな夏色だ。
「遅いよ、健二さん。待ちくたびれた」
 健二が呼びかけるよりはやく佳主馬が笑った。
「あ、ご……ごめんね」
 ぎこちなく返すと、佳主馬は首を傾げてズボンのポケットに両手を突っ込んだ。そのまま歩み寄ってくる佳主馬を見つめ、健二は四歳年下の少年が随分と成長していることに気づいた。坂道で対面しているせいか身長差があまりない。制服に身を包んだ佳主馬は大人びて見えた。
「大きくなったね、佳主馬くん」
「そう? 相変わらずチビって言われるけど。荷物すごいね。半分持つよ」
「えっいいよ」
「いいから貸して」
 佳主馬は健二の手から荷物を奪い取り、その重さに眉を寄せた。とても片手では持てない。
「何これ、こんな重いの持ってきたの?」
 佳主馬は両手でしっかり荷物を抱え、きょとんと立ち尽くしている健二を見下ろした。 
「重い、かな」
「重いよ」
「やっぱり持とうか」
「いい。平気」
 佳主馬は健二に背を向け、歩きだした。健二はしばらく小さな背中を眺めていたが、やがてその背中を追いかけた。まだまだ健二のほうが歩幅は大きく、となりに並んだ佳主馬はやっぱり小さい。変わったようで変わってない。でも、確かに変化しているのだ。
 健二は思う。ゆっくり、そっと、この不安も緩和されていくだろう。けれど無くなることはない。自分は臆病な人間だ。これからも迷い、道の途中で踏みとどまるだろう。それでも進んでいける自分を知っている。ここにいることが、その証だ。
「来ないかと思った」
 ぽつりつと吐き出された言葉に健二はやんわり微笑んだ。佳主馬の歩幅に合わせ、ゆったり坂道を上っていく。
「なんで? 来るって約束したじゃない」
 佳主馬は荷物を抱え直し、横目で健二を見た。
「ずっとぼんやり突っ立ってたから」
「見てたの?」
 健二から視線を逸らし、佳主馬は陽に照らされた坂道を睨むように見つめていた。
「健二さん、本当は来たくなかったんじゃないの」
「そんなこと、あるわけないだろ」
 憤りと悲壮を帯びた声に、佳主馬のみならず健二自身も驚いた。
「僕はね、佳主馬くん。みんながまたおいでって言ってくれて、きみが会いたいって言ってくれたから、だから来たんだよ」
 夏の風に吹かれ、健二は表情を和らげた。
「佳主馬くんとの約束、ちゃんと守ったでしょう? 待っててくれてありがとう」
 健二の笑みに佳主馬は白い歯をこぼした。
「ほんと、待ちくたびれたよ!」
 健二を見上げる佳主馬の瞳は、あの夏の輝きを帯びてキラキラ瞬いている。変わっていくもの。変わらないもの。すべてがここにはある。