死ぬほど暑い。
 エアコンの使用は、教師が冷え性だからという理由で却下された。「窓を開ければ涼しいわよ」と教師は言ったけれど、開け放たれた窓からはじっとりとした空気しか運ばれてこない。美術室は今や地獄と化している。
 しかも次は体育だ。最悪なことに今日はプールじゃない。体力が低下している状態で、蒸し風呂のような体育館を駆けずり回らなくてはいけないのだ。そもそも何故こんな時間割なのか理解できない。連続して移動を必要とする授業なんてどうかしている。休み時間の意味がない。あまりの暑さに普段なら思いもしない愚痴を胸中で吐き、佳主馬は熱気のこもった美術室で彫刻刀を動かした。
 次が体育で救われる点は、Tシャツと短パンという軽装で授業を受けられることだ。大半の生徒は腕まくりをしているが佳主馬も例外ではない。足下も踝ソックスをはいて最大限の露出を試みていた。
 それにしても暑い。本当に暑い。オリジナル印鑑なんて作っている場合ではない。
 下敷きがあれば団扇代わりにできるのだが、彫刻に必要ないし次は体育だからと教室に置いてきたのが失敗だった。体育の間、下敷きは下駄箱に突っ込んでおけばいいのだ。次からは是非そうしよう。佳主馬は決意して、長方形の固形物を大胆に削った。同時にぼたぼたっと何かが垂れた。
(…………鼻血?)
 そう思った瞬間、彫刻刀が指先を直撃した。ぶわっと鮮血があふれ、先ほどの血溜まりに混ざる。
 佳主馬は左手の人差し指を咄嗟にくわえ、もう片方の手で鼻先を拭った。やっぱり鼻血だ。暑さにやられたかな。冷静に考えながら、佳主馬は血を舐めとった人差し指をくちから離し、右手で挙手した。
「先生」
「なんですか?」
「鼻血が出ました」
「えっ」
「あと彫刻刀で指を切りました」
「大変! すぐ保健室に行ってきなさい」
 教師は男子の保健係を呼んで付き添いを命じた。じゃんけんで負けた結果なりたくもない保健係になった少年は、面倒くさそうに佳主馬のとなりに並んだ。クラス替えをして三ヶ月近く経つが、この生徒としゃべった記憶が佳主馬にはない。出席番号順でも背の順でも縁のない二人だ。
「じゃあ、よろしくね」
「はーい。行こうぜ、池沢」
 教師に見送られ、佳主馬と保健係は美術室を出た。人気のない廊下は美術室よりも涼しい。授業中に堂々と廊下を闊歩できるのは気持ちいいことだが、痛みと流血でそれどころではない。
「おい、ちんたら歩くなよ」
 ジャージのポケットに両手を突っ込んで保健係は言った。自分こそちんたら歩いているくせに、と思ったが反論はしない。佳主馬にそんな余裕はなかった。
「なんかフラフラする……」
「ちょ、おまえ血塗れじゃん。上向けよ、上」
「上向くのは、ダメなんだって」
「マジ? 知らなかった」
 佳主馬は言葉の合間に血を拭っては舐め、顔をしかめた。鉄のにおいと血の味がくちいっぱいに広がって消えない。
「よく鼻血出すひとが言ってたから、間違いないよ」
「へえ……ってか、しょっちゅう鼻血出すとかウケる」
「格好悪いよね」
 でも、それが格好良くもあるのだ。佳主馬の脳裏に、去年の夏の出来事がよみがえる。
「なあ大丈夫か? 歩ける?」
 佳主馬はぼんやりした様子で頷き、クラスメイトを見上げた。同学年なのに頭ひとつ分の身長差がある。健二との差も丁度これくらいだった。
「あっ、そうだ。おぶってやるよ」
「……は?」
「その方がはやいだろ」
 保健係は佳主馬のまえに屈み込んだ。無防備に背中を差し出された佳主馬は、首を振って「いいよ」と答える。
「重いし、血だらけだし……汚したら悪い」
「おれ運動部だから怪我したやつ運ぶのとか慣れてるし、服は洗えば問題ないじゃん。遠慮するなって」
「…………じゃあ、よろしくお願いします」
 佳主馬がぎこちなく背中に寄りかかると、保健係はゆっくり立ち上がった。
「うわっチョー軽いんですけど! うちの部員もおまえくらい軽ければなあ。まあ、ぶっ倒れることもあんまねぇけど……そういえば池沢って何部?」
「帰宅部」
「もったいねえ。運動できそうなのに」
「そうでもないよ」
「足は速いじゃん。去年の体育祭おまえに抜かれたし」
「…………覚えてない」
「ひっでー」
 保健係は笑って、軽やかに階段を下りていった。
 保健室は一階の端っこにある。訪れたのは身体測定以来だろうか。保健係は『入室前にはノックを』という張り紙の指示通り、ノックを三回してから横手にドアを引いた。
「失礼しまーす……って誰もいねぇし」
 佳主馬はドアの横にぶら下がっている『外出中』の札に気づいた。保健係に教えると、彼は「マジかよ」とぼやいた。このまま立っていても埒が明かないので、とりあえず進入する。
「どうすっかな」
「あれ、書けばいいんじゃない?」
 佳主馬は入口付近のテーブルに置かれた一冊のノートを指さした。大人の字で『健康ノート』と書かれている。なぜ保健室に来たのかを記入するノートらしい。保健係はおぶっていた佳主馬を下ろし、ノートを手にした。表紙に『先生が不在の場合、付き添いの保健係が記入すること』と書かれている。他にも記入すべき項目が指示されていた。
「えーっと……おまえ池沢なんだっけ」
「かずま」
「症状は、鼻血と切り傷でいい?」
「うん」
「思いあたる原因は?」
「鼻血は暑かったせいだと思う。指は彫刻刀で」
「すっげえ痛そうだよな、それ。…………よし書けた」
 保健係はノートから顔を上げ、佳主馬を見下ろした。つられて佳主馬も保健係を見上げる。この角度。やっぱり健二を見上げているときの感覚に似ている。
「じゃあ、おれ戻るわ。適当に寝てれば? どうせ次の体育は無理だろ?」
「うん。そうする」
「お大事に」
 そう言って保健係は立ち去った。



 ひとり取り残された佳主馬は血だらけの手を見つめ、流しに移動した。窓に面しているので校庭が見える。保健室同様だだっ広いグラウンドはがらんとしていた。
 蛇口を捻って水を出す。流水に指をつけると、ピリッと傷にしみた。
「いっ、たあ……」
 佳主馬は人差し指を押さえ、おざなりに手を洗った。消毒するのは諦めよう。面倒くさい。もう横になりたい。また血が滲みだした人差し指を舐めながら佳主馬はベッドに向かった。
 カーテンを引いて、白いシーツが敷かれたベッドに潜る。爪先を使って器用に靴下を脱ぐ。冷たい布の感触に包まれ、佳主馬はやっと一息ついた。暑さのせいで体が火照っている。鼻血は止まりそうになかった。
 手を拭いたついでに取ってきたペーパータオルを鼻にあて、佳主馬は目を閉じた。止血のためとはいえ指をくわえベッドのなかで丸まっている自分は赤ん坊みたいで格好悪い。
 鼻血のスペシャリストの健二がいれば心強いのに。
 佳主馬は目を瞬かせ、カーテンを見つめた。体が火照っているのは暑さのせいだけじゃない。鼻血を出した瞬間から健二の顔がちらついている。きっと、そのせいだ。佳主馬は膝をすり合わせて一段と背中を丸めた。
 ぼくって最低だ。枕に顔を埋め、佳主馬は罪悪感に打ちひしがれた。白いシーツに赤茶けた染みができる。それすらも健二を彷彿とさせ、佳主馬は一層困惑した。
(やだやだっ、健二さんでこんなこと……!)
 ダメだ。絶対にダメだ。我慢しろ。我慢するんだ。健二の顔が見られなくなってしまう。罪悪感で死んでしまう。嫌だ。こんなこと考えている自分なんていっそ死んでしまえばいいのに。最低だ。最悪だ。そう思えば思うほど脳内は健二に占拠されていく。
 佳主馬は堪らず短パンのなかに右手を差し入れた。羞恥心と緊張のなか息をのむ。いつ誰がやってくるかもわからない。たった今このカーテンが開くかもしれない。それでも止まらないものは仕方ないと自分に言い聞かせる。生理現象だ。なにも初めてのことじゃない。ただ無心に、迅速に処理すればいい。問題ない。佳主馬は火照った体を鎮めるため、ゆるゆると自身をしごいた。どうすれば気持ちいいか右手は知っている。勝手に動く。まるで知らない誰かにコントロールされているみたいだ。ふと、その知らない誰かが健二になろうとした。そんなこと望んでないのに。違うのに。暑さで脳味噌がバカになっている。もういい。はやく終わらせよう。動きが物足りなくなった佳主馬は短パンをずり下げた。もたついているより、さっさと出して何事もなかったことにしたい。
(……あ、血の味)
 唾を飲み込んだ瞬間だった。もう一度、嚥下してみる。やっぱり血なまぐさい。鼻血を出した健二とキスしたら、こんな味がするのだろうか。そう思ってから佳主馬は自分の考えにげんなりした。気づくと健二のことを考えている。それはまだしも鼻血を出しているときにキスしようとするなんて自分はどうかしている。変態なのかもしれない。健二の血なら舐めとってあげたいとさえ思う。血の味と、血を舐める自分を想像したら、最高に最悪な気分になった。
 左手で握りしめたペーパータオルは、鼻血と人差し指からの流血で赤く染まっている。それを鼻先から退けて、佳主馬は人差し指の血小板をはがした。また血が滲む。ちゅっと音を立てて指先に吸いついた。まずい。なんだか吐きそうだ。気持ち悪い。それなのに手のひらを濡らす感触はひどくなる。頭がぼんやりする。自分はどうかしている。
(健二さんでこんな…………ちがう、健二さんのこと考えたらダメだってば)
 頭のなかで小さな分身が会議を繰り広げている。理性が「厳粛に」と叫ぶなか三大欲求のひとりが「本能を支持します」と声高に宣言する。反対する羞恥に、本能は「カマトトぶってんじゃねーよ」と怒鳴る。性欲と素直が本能を後押しすると、ついに理性は折れた。
(健二さん……どうしよう、ごめんなさい。でも、だって)
 ぎゅっと右手に力が入る。健二さんに触りたい。触ってほしい。渦巻いている欲情があふれる。好きなのに、好きだから、ただの生理現象が大変なことになる。本当にどうなっているんだ、自分は。脳内会議では情けなさと罪悪、快楽が手を組んで、なにがなんだかわからない気持ちになる。
 涙目になりながら佳主馬は呻いた。赤いドット柄になったペーパータオルを下半身に忍ばせ、その感触に戦慄く。ベッドのなかは死ぬほど暑い。思考能力が奪われる。次第に健二の笑顔も、なにがなんだかわからない気持ちも、ひとつになって消えた。



 赤い血と白い液体で汚れたペーパータオルをゴミ箱へ捨てるついでに、佳主馬は流しで手を洗った。
 つい先ほど終業のチャイムを聞いたばかりだが、だんだん出しっぱなしの彫刻刀や彫りかけの印鑑の存在が気になってきた。片づけてくれるひとはいるだろうか。片づけてほしいが、印鑑の絵柄を見られたくない。
 思い悩んでいると突然、背後でドアが開いた。保健係だった。
「あれ、先生は?」
「……来てないよ」
「ショクムタイマンだな。で、具合はどんな感じ? 今日バレーだってさ」
 佳主馬は人差し指を見つめて出ると答えた。バンドエイドを貼っておけば大丈夫だろう。鼻血も出ていないし、今は運動でもしてスッキリしたい気分だ。
「そうだ、彫刻刀……」
「片づけておいた。おまえの印鑑ってさ、どっかで見たことあるんだけど……あれってアバター? リス、だよな」
「…………そうだけど」
「池沢の?」
「ちがう。よく鼻血だすひとの」
「ああ、例の」
 保健係はイメージぴったりだと腹を抱えて笑った。
「おまえもキングカズマにすればよかったのに」
 どうやら保健係の印鑑はキングカズマ柄らしい。他にもうさぎを彫っているクラスメートがいたけれど、佳主馬はなんとも言えない気持ちになった。そして、どこまでもついてまわる健二の影にイライラした。健二のアバターを選んだのは自分だけれど、あんなことの後ではバツが悪い。
 脳内会議に招かれた健二が「困らせてごめんね」と笑う。健二を取り囲んでいる小さな佳主馬が、一斉に「健二さんは悪くない」だとか「健二さんがいけないんだ」と言い訳をはじめる。黙れよ、ぼく。
 佳主馬は悶々としながら体育館へ向かった。バレーボールを思いきり叩きつけてやる。それから、それから――――
「池沢、いったぞ!」
 ピンクのゼッケンをつけたチームメイトが叫ぶ。佳主馬はハッとして顔を上げた。意識が、途切れていた。健二の影を追い払うことばかり考えていた。佳主馬の脳内会議は混迷を極め、最早カオスである。
 白球がネットを飛び越える。アタックしたのは男子バレー部のエース。ボールの威力は凄まじい。動かなければと思うのに反応できない。佳主馬は自分めがけて飛んでくるボールを、ただ見つめた。
 刹那の出来事。佳主馬はコートにうずくまった。
「おおっ顔面ブロック」
「池沢サイコー!」
 チームメイトは感心を装って笑い転げている。
 スパイクを決めた生徒は慌てて佳主馬のもとへ駆け寄った。保健係だった。
「悪い! 手加減できなくて、つい……大丈夫か?」
 両手で顔を覆いながら佳主馬は僅かに頷いた。赤い血が、顎を伝って胸元を汚す。保健係は目を丸くして項垂れた。
「また鼻血……マジごめん」
「ぼんやりしてたぼくが悪い。気にしないでいいよ」
 もう一方のコートで審判をしていた教師が、事態に気づいて駆けつけた。保健室へ行った方がいいと言われ、佳主馬は苦虫を噛み潰したような顔をして首を振った。嫌なことを思い出させないでほしい。しばらく保健室には近づきたくない。
「平気です。すこし休んでていいですか」
「それは構わんが……」
 頭を下げ、佳主馬はコートから出た。体育教師は控えの生徒を呼んで交代を命じた。
 舞台前で待機している生徒に混じって、佳主馬は鼻を押さえながら立ち尽くす。手首に伝った血をシャツで拭い、じっと爪先を見つめる。鼻血が出たときは爪先を見るのがいいと、健二が教えてくれた。
 記憶の片隅で健二がへらっと笑っている。勝手にひとの頭のなかに入ってくるなよ。佳主馬はへたり込み、ぎこちなく体育座りをした。
(健二さんのバカ……)
 どれもこれも暑さのせいだ。夏のせいだ。佳主馬はきつく目を閉じ、膝小僧に顔を埋めた。