空が泣いた。フロントガラスに叩きつけられた雨粒が悲鳴をあげている。ちいさな密室に閉じこめられた佳主馬は息苦しさに喘いだ。重苦しい空気に圧迫され、嘔吐しそうだ。
「…………佳主馬くん」
「………………」
「……大丈夫?」
 指先が、つと頬を撫でる。健二の手を払い除け、佳主馬はくちびるを噛み締めた。
 健二は大学院ゼミの飲み会に行っていた。朝まで帰らないかもしれないと言われていた。だから、迎えに来てほしいと言われたときは嬉しかった。ひとりで眠るには家のベッドは広すぎる。すこし窮屈くらいが丁度いいし、もう体がそれに慣れてしまったから。
 車を走らせ、指定された場所まで迎えに行った。おかしいと思ったのだ。ホテルに来いだなんて。到着を知らせる電話もメールも無視された。数十分後、バックミラー越しに健二を認めた佳主馬はすべてを理解した。健二の腕のなかには見知らぬ女性がいた。キスを、していた。
 ハンドルが濡れる。ちいさな密室にも雨が降る。
「なんだか僕って、きみを泣かせてばっかりだね」
 健二は曇ったガラス窓に数式を書き込んで笑った。
 佳主馬は涙を拭い、不実の恋人を見つめる。最悪だ。彼は酔っている。
「これで何回目か覚えてる?」
「さあ……」
 ぼんやりと数式を見ていた目が、ふっと弧を描く。
「佳主馬くんのほうが覚えてるんじゃない?」
「ふざけるなよっ」
 佳主馬は苛立たしげにハンドルを叩いた。
「ぼくのこと嫌いになったんなら、こんなことしなくたってちゃんと言えばいいじゃないか」
「なんで? 佳主馬くんのこと好きだよ」
 稲光に照らされ、微笑が仄暗い闇のなかに浮かび上がる。佳主馬は顔を歪め、震える指先を隠すようにハンドルを握りしめた。
「健二さんは本当にずるい」
「はじめに言ったよね。僕は、きみが思っているような人間じゃないって」
「そんなこと……」
 ああ、でも彼の一人称が、装うときの「僕」に戻っている。
 なにか考えるように健二が遠くを見つめるようになってから。終電を理由に帰ってこない日々が続いてから。自分の知らない香水のにおいをさせるようになってから。自分は彼にとって、恋人でも何でもない存在になっていたのかもしれないと佳主馬は思った。
 はじまりの瞬間から終わりを考えているような人だった。なにを思って、こんなことをするのか。わからないふりをしているだけで本当はわかっていた。彼は、終わらせたがっている。気持ちは関係ない。ただ壊したいのだ。彼が渇望している家庭すらも作れない、未来も描けない、こんな関係を。
「…………別れたい?」
 健二は目を瞬かせ、窓ガラスにこつんと頭をぶつけた。
「どうして僕に訊くの」
「わかってるくせに」
「わからないよ」
 試すような眼差し。ぞっとするほど美しい微笑み。ずるい。ずるい。なんてずるい人。ナイフを突きつけるくせに、自分では決して振りかざそうとはしないのだ。人を傷つけると自分が傷つくから。罪悪感に苛まれてしまうから。それから逃れるために、それだけの理由で佳主馬にナイフを押しつける。さあ、壊してしまえと囁いて。佳主馬が衝動に駆られてナイフを振り上げるのを待っている。
「ぼくからは絶対言わない」
 佳主馬のつぶやきに健二は首を傾げて笑った。
「佳主馬くんだってずるいと思うけど」
「健二さんに言われたくないよ」
 アクセルを踏んで、夜を駆ける。ヘッドライトが照らすのは降りしきる雨粒だけ。車はおろか人影すらない。水飛沫をあげて車は疾走する。
 不意に健二が窓を開け放した。風と雨が一気に吹きこんでくる。
「うわっ冷たい」
「なにやってるの、はやく閉めなって」
「気持ちいいねえ」
 のんびり健二は笑う。
 駄目だ。酔っ払いは放っておこう。佳主馬は諦め、頬を濡らしながら車を運転した。それから静かに言った。
「健二さんが別れたいって言わない限り、どんなひどいことされたって、言われたって、ぼくは別れないから。あなたがそれを望んでいたとしても叶えてあげない」
「ふーん……?」
 ずぶ濡れになった左腕で頬杖をつき、健二は佳主馬の横顔を見つめた。
「かわいいね、佳主馬くん」
「……健二さんのそういうところ大っ嫌いだ」
 雨のカーテンを捲るように、健二は暗闇に手を伸ばした。
「好きなものを自分から手放すのは嫌だと思わない?」
「じゃあ手放さなければいい。誰も、僕は手放せなんて言ってない」
「そうなんだけど、噛みつかれたほうが諦められるかなって」
「何それ。ぼく健二さんのペットなわけ?」
「ペットは嫌だなあ。すぐ死んじゃうもん」
「…………」
「あっ、赤だよ」
 急ブレーキに体が傾く。健二はジェットコースターみたいだと笑った。
 赤信号を見つめ、佳主馬はふっと笑みをこぼした。
「健二さんって本当わがまま」
「そうだね」
 他人事のように頷き、健二はシートベルトを外した。腕を伸ばして褐色の肌を引き寄せる。びしょ濡れになった黒髪に指先を埋め、健二は佳主馬のくちびるについた水滴を一滴残らず舐めとった。
「好きだよ、佳主馬くん」
「…………」
「きみを嫌いになれたらいいのに」
「……ぼくも健二さんのことなんて嫌いになりたい」
 横殴りの雨が心を打ち砕いていく。息もできないくらい激しいキスをして、このまま溺れてしまいたい。見えないナイフを手にしたまま、佳主馬はちいさな密室で蹲っている。